ph_photo_t033.jpg「温(ハル)くんは震災前はどうしてたの?」
智恵さんが、4歳になった長男に尋ねる。
「あの、怒られたりとか・・・あとー、公園にいったりとか、お外で遊んでたりとかした」
目をくりくりとさせながら、温くんが無邪気に答えた。

一家は現在、新潟県が自主避難者受け入れのために準備した借り上げ住宅に住んでいる。福島県須賀川市郊外に二世帯住宅を建てた数年後、東日本大震災が起きた。妊娠していた智恵さんと子どもたちのことを心配し、彼らは自主的な避難を決めた。そして、避難場所を転々としながらようやく、新潟での新しい生活を始めたのだった。

2011年3月、長男の温くんは3歳、次男の心(シン)くんは智恵さんのお腹の中にいた。大祐さんと智恵さん夫婦は、ともに在宅での仕事をしながら子育てをしていた。

11日、智恵さんは温くんと車でお菓子屋さんに向った。お店の駐車場に着くと、温くんがぐっすりと眠り込んでいる。
"起きるまで待とうかな"
智恵さんはシートベルトを外して少し体を伸ばし、息子の横で目を閉じた。

急な揺れで彼女は目を覚ます。車がデコボコ道を通っている時のように揺れている。外を見ると、お店から次々に飛び出して来る人々と、その近くにある工場の壁がバラバラと落ちるのが見えた。すぐにエンジンをかけ、家へと向った。いつもの道は山崩れで塞がり、沈没している家、崩れている家もあった。ノロノロと進みながら自宅に辿り着き、家族の無事を確認し胸を撫で下ろす。温くんを見ると、相変わらずスヤスヤと安らかな寝息を立てていた。

「震災後にハルが"地震が怖くて眠れない"という思いをしなくて済んだのはよかった」
部屋で遊ぶ2人の息子たちを目で追いながら、彼女は当時を思い出すように言った。

一方の大祐さんは、震災時は自宅で仕事をしていた。
「棚からいろんなものが落ちて来て慌てて仕事机から離れました。大きな揺れがずっと続いて"日本沈むんじゃないか"ってけっこう怖かった。食器は落ちて来るし、片付けも大変だなあと。インターネットを見ていたら当日から"原発が危ない""もう早い人は逃げ出してる"って情報があって、うちもマズいかなと思ってたところに、14日午前中3号機が爆発。遠方に避難出来る程のガソリンは無く、幸い福島空港が近いことに気が付いた。すぐに飛行機のチケットをとろうとしたんですが、既に北海道行きの3人分しか残ってなくて。同居している親にそのことを話すと"私たちは残る"と。それで、僕たちだけ避難することになったんです」

その頃の須賀川では、水汲み場にも子どもたちの姿があり、放射能を気にする雰囲気はさほど無く、マスクをしている人も少なかった。智恵さんは、自分が避難することになるとは全く思っていなかったという。夫と両親に「お腹に子どもがいるから避難した方がいい」と促されるままに、子どもを連れて北海道へと向ったのだった。

北海道に降り立つと、水洗トイレの水が普通に流れ、店が開き、商品が棚に溢れ、電気が煌々と点いていた。数日前まで当たり前だったことが驚きであり、安堵で体の力が抜けた。予約していた宿に向う道すがら、彼らはコンビニに寄った。その時、レジの横にあった『東北地方太平洋沖地震』の募金箱が、智恵さんの目に入った。

"自分たちだけ逃げて来てしまった"
ずっと持ち続けていた後ろめたさが、刃となって突き刺さった。

「時間が経てば経つ程、家族や友達やお客さん、福島での人との繋がりを全部捨てて置いてきてしまったことが凄く辛くて、泣いてばかりいました。実際に避難してみたら、避難ってこんなに辛い事なんだって。でもとにかく、子どもを食べさせて、暮らさなきゃってことも必死で。狭いウィークリーマンションで、外は雪で、どうやって子どもを遊ばせるかも悩みました。それでも、札幌にいる旧友や、帰省中だった会社の同僚と連絡がとれて、生活用品を貸してくれたり、札幌観光までしてもらったり。ありがたかったですね。」

ある日、大祐さんの会社の社長から連絡が入った。なんと軽井沢の別宅を貸してくれるという、突然のプレゼントのような申し出だった。一家は暫くの間、その軽井沢の家にお世話になる事にした。

「生活に必要なものは揃っているし、気兼ねなく使っていいと。温も保育園に入ることが出来て、友人が妊婦服とか子どもの絵本とか送ってくれて、本当に色んな人に助けてもらいました。でも"避難して良かったのかな?"って、ずっと悩んでました。同じ地区に住んでいても、避難する人としない人がいて、みんな考え方が違うし、その人なりの考えで動くしか無いとはいえ、判断が個々に任されることで人と人の気持ちがすれ違い、繋がりが切れてしまったり、批判しあう雰囲気まで出てくる。私たちは在宅での仕事をしていたので家族揃って避難することが出来、仕事も続けられましたが、悩んだ末に留まることを選んだ人や避難したくても許されなかった人のことを思うと、地元の友人に気安く連絡することもできず、避難した自分がどう思われてるかも不安でした。だから、友人から電話をもらったり、地元のお客さんから仕事の継続依頼を受けたり、仕事仲間がチャリティーTシャツ作ろうと声をかけてくれたり、留まった人達とまだちゃんと繋がれてるって思えた時に、凄く救われました」
大祐さんが付け加えるように言う。
「国の方で強制的に避難させてくれればいいのにって思いましたね」

その三ヶ月後の7月、智恵さんの出産を控え、一家は宮城県名取市にある智恵さんの実家へと身を寄せることにした。しかし、出産後もずっと家族全員でお世話になり続けるのは難しい。とはいえ自宅に戻ろうにも、福島県中通りにある須賀川市西部の自宅周辺は、原発からは距離があるにも関わらず、放射線量が比較的高い地域であることが分かってきていた。
"福島の家のローンもまだ残っている。この先どうすればいいのだろう?"
名取市は津波の被害が大きかった地域で、県外からの自主避難者に対する住宅支援をする余裕は無く、また、宮城県内は放射線量の情報が少ないことも、彼らの心に僅かに引っかかっていた。そんな折に飛び込んで来たのが、新潟県が自主避難者向けの借り上げ住宅を提供しているというニュースだった。

「また遠くに引っ越すことが子どもにとってどうなのか悩みました。でも、放射能の子どもへの影響は前例がなく、実際のところ誰にも分からない。だったら可能な限り避難を続けようと、新潟に来ることを決めました。それでも、家のローンもあるので、借り上げ住宅制度がなかったら避難生活を続けるのは難しかったかも知れません。新潟では幼稚園の費用にまで補助金を頂いて、他の親御さんに申し訳ないような気持ちにもなるのですが、二重生活で何かとお金がかかるのは事実なので、ありがたいですね」

そして一家は新潟へと渡った。

「その頃、避難者に対する学校でのいじめなどが報道されていて、福島ナンバーの車に乗ってて大丈夫かな?って。自分はいいけど、子どもが嫌な思いをしないか少し心配で。福島でも、新潟に来ても、自分の立ち位置に迷い、積極的に人と関われませんでした。でも、福島ナンバーを見て「私も福島出身だよー」って声をかけてくれたお母さんがいたり、近所の人に「大変だったねぇ。でも新潟もいいとこでしょ?」と励まされたりして。私たちは恵まれていますね。そんなふうに新潟に知り合いも少しずつ出来て、同じような避難者と繋がったり、やっと新潟でも地に足が付いて来たかな。ああ、やっぱり人との繋がりって大事なんだなあって。前はそんなこと気にしてませんでしたが、人との繋がりがあってこそ、自分がしっかり立っていられるんだって実感しました。離れていたとしても、繋がり合ってる家族や友達がいると感じることで、自分が安定して落ち着けるんだなって」

明るい表情を見せる智恵さんの横で、大祐さんが困ったような泣きたいような、曖昧な笑顔を浮かべた。
「僕は周りに知り合いがいないな。冬は雪で大変だし・・・戻れるものだったら戻りたい・・・」
2011年の冬、新潟は記録的な大雪に見舞われた。慣れない中での雪国生活は、想像を超える大変さもあっただろう。

静かな沈黙が続いた後、彼は続けた。
「避難してもしなくても子どもへの影響は変わらなかったかもしれないし、避難していろいろ辛い事もあった。でもやれることはやったから、あとは将来的に子どもが健康で育ってくれたら、それでいい、かな」
聞きながら智恵さんが頷く。
「あとは、運なんだなって。いつ何が起きるかは分からない。今あるものだって、いつ何時奪われるかも分からない。だから、大事にしたい」

今の生活を作り出すきっかけを作った原発について、彼らに尋ねた。

「僕は何も考えたことなかった。別にあってもいいのかなと、安全だって言われていたし。格納容器とか防護壁とか5重のシェルターに守られてて、万が一何かあっても大丈夫なんだと。そういう話をまるっきり信じてたから"そんなに安全だったらあってもいいんじゃない"って思ってました。使用済み核燃料もロケットに乗せて宇宙に飛ばすとか、科学の力でいずれ解決出来るだろうって思ってて、原発に悪いイメージは全然持ってなかったな。事故が起きることはまず無いだろうと。もし事故が起きたら、一瞬でみんな死んじゃうと思ってたし、避難する事態になれば、チェルノブイリと同じようにかなり広い地域での強制避難になるだろうと思ってた。でも、絶対安全なものは無いし、報道される内容が正しいとは限らないと分かった。まさか、あんなずさんな管理をしていたとはね・・・。福島だけじゃないし、同じようなことが起きる可能性を考えると、原発が無いに越した事は無いって今は思う」

何か言いたげにしていた智恵さんが、言葉の終わりを待って話し出す。
「私は逆で、高校生の時に原発の使用済み核燃料が危険なまま何万年も残ってしまう事を知って"原発って絶対ダメだな!"って思って、原発の代わりになるようなエネルギーを研究したい!って思った。でも理科が苦手で文系の大学に入って、そのうち原発の事もすっかり忘れちゃって、今回の事故があって、"あ、私のせいだ"って。結局、原発ダメって思っても実際に動かなかった訳で、そういう人達だらけだから、こういうことが起こっちゃったんだろうなって」
そう言うと、今度は自分に語り聞かせるように呟いた。
「本当に今回の事故は自分のせいだなって。だから今からでも、自然環境や子ども達の将来のために何かしないといけな いって思ってる。でも、核燃料の処理とかの研究するにも頭が悪いし・・・、政治にも疎いし・・・、私みたいな一般の人たちが実際に何か行動に移すには、現実的にはどういう形がいいんだろう・・・」

「意識することなく多くの人が今まで来てたってことでしょ。これからなんだと思うよ。安全だって思ってたのは嘘だって今回分かった訳だから、これから変わって行くんじゃないの。」彼女への助け舟を出すように大祐さんの言葉が挟み込まれた。しかし、智恵さんは俯いて固まったままだ。

「そりゃあ、変わって行ったらいいなあって思うけど・・・、嘘だって分かっても再稼動するし・・・。これはもう原発だけの問題じゃないよね。そこで自分に出来る事は何なんだろうって思うと、まずは自分の子どもに命や自然の大切さを教えるとか、ちゃんと政治に興味を持つような人間に育てるとか。親が子どもに"そういう人間になれ"って言ってもどうなるかは分からないけど」
「東京電力に入ればいいんじゃない?内部から変えれば」
「子どもが?私じゃなくて?」
「いやいや入るのは子どもでしょ」
そんな2人のやりとりが続いた後、智恵さんが意を決するように言った。

「私も、とにかく今出来る事をやらなきゃいけない。で、子どもも20年くらいで独り立ちするだろうから、その後は廃炉にするための作業員になろうと思ってる。今は子どものため、というか子どものお陰で、こうして安全なところで暮らしているけど、"自分のせいだ"って思ったからには、それくらいのことはやらなきゃダメかなって」
「我が家は安泰だ。今後数十年は食いっ逸れ無し!」と冗談めいた口調で言った大祐さんに「そうじゃなくて!」と懸命になる智恵さんを、彼はゆっくりと覗き込んだ。

「じゃあ、老後は一緒に廃炉への作業員になろう。何でもやりますから働かせて下さいって言って」
智恵さんの顔に、柔らかな笑顔が広がった。
「そうそう、一番危険な任務をあてがわれるかもしれない。まあ、それも仕方ない。それで地球が少しでもきれいになるんだったら、それでいい」
大祐さんは彼特有の穏やかな笑みを浮かべ、言った。
「アルマゲドンのブルース・ウィリスみたいにね」

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(写真:本人提供)