「富岡は田舎です。原発がなかったらただの過疎の町だったはずです。第一と第二原発の間に挟まれて、原発関係の会社も多く、町の主要産業の多くは、何かしら原発と関わりあるものが多い。でも、子供の頃なんて、そんなこと意識しないですよね。原発関係で働く親を持つ同級生も結構いたし、大人になって関連企業で働く人も多い。"原発"っていうより、ひっくるめて"東電"っいう言い方が一般的でした。東電やその関連会社が自然に職場としてあって、自然に原発と共存してて、ただそれだけ。

 チェルノブイリの事故の時は東京にいましたが、事故を地元の原発に関連付けて考えたりはしなかったです。全く他人事でした。東京の電気が福島から送られてきていることも知ってはいたけど、突き詰めて考えることはなかった。結局東京には24年間住んでたので、まだ福島にいる時間より長いですね。音楽の道を志しながら、紆余曲折あり、色んな仕事を経験する中で、自分で音楽レーベルを始めたのは1999年の事です。それから2009年にこれまた紆余曲折あって、富岡に帰って実家のホテルを手伝う事になったんです。自分のレーベルも継続しながらね。富岡では自分が生まれる前に母が割烹、父が車の修理工場を始めて、その後、原発関連の需要を見込んで父がビジネスホテルを作ったんです。今は兄が修理工場を継いでいて、自分がホテルを引き継ぐという段取りでした」

ph_photo_t032b.jpg平山さんが富岡に拠点を移してから2年が経とうとしていた。ちょうど山形のインストバンド、dinnerのリリースを5月に控え、準備にとりかかったタイミングでの出来事だった。

「ひと仕事終わって、床屋に行ってました。そこでじゃあ顔を剃りますねって顔に泡を塗りたくった時に揺れがきたんです、ガガガッ!て。カミソリあててたらやばかった・・・。外に出たら電柱やら近くにあった東電支所の高い鉄塔がガッシャンガッシャン揺れてて、まわりの家もガラスが割れたり。散髪は途中でやめて、でも「またあとでね」って位のノリでホテルに戻ったんですよ。

戻ったら大騒ぎでした。うちのホテルは、場所柄9割が原発で働いてるお客さんで、昼間もホテルに残ってる夜勤の人たちがいたんですけど、従業員も皆外に出てました。それから中を片付けに入るとまた揺れて避難してを何回も繰り返し。震度6クラスの揺れが連発してたんですよね。その時点で電気と電話は止まってました。でもガスはプロパンだったので使えたんです」

その夜平山さん達は、ホテルの高架水槽にかろうじて残っていた水を使い、従業員や宿泊客たちにおにぎりとみそ汁を出した。原発に働きに出ていた人たちが徐々に戻り始め、深夜を回る頃、全員が揃った。宿泊客は、暗闇の中それぞれの部屋に泊り、平山さんはロビーで一晩を過ごした。

当初、ホテルの宿泊客から「原発がやばいかも」とは薄々話は出ていたものの、町が設置した防災無線からは避難とか津波とか放送した記憶はないという。情報は人づてだった。駅前が津波で流され、瓦礫が街中に流れ込んで来ていたことを知ったのも翌朝だった。そして昼頃、平山さんの兄が只ならぬ表情で駆け込んで来て言った。
「富岡町は全員避難」
いわきに向かう道はすべて地割れ陥没で通行止め、富岡町の人々の避難先は川内村とのことだった。宿泊客は各自の車や、従業員の車に乗り合わせもらっての避難が始まった。平山さんの両親も川内村へと車で出発した。しかし、平山さんは残ったのだった。

「自分はその時でさえも「まあ収まるだろう」とタカを括ってた。なめてたんでしょうね。誰ともなく避難といっても「2、3日様子を見るだけ」みたいな噂だったので、数日で帰ってくるんだったらここにいるよってね。そんな程度の認識でした。まさかこんなに長引くとは思わずに地味に掃除してましたよ。割烹のお酒やらグラスやら食器類は全部割れて床に散らばってましたから。夕方には町から誰もいなくなって心細かったですね。でも、うちの両親が、川内村まで延々と続く避難渋滞に飽きて戻ってきちゃったんですよ。楽天的なのは遺伝ですかね(笑)。まあしょうがねえなって感じで。ライフラインのない真っ暗な中、3人で2日目の夜をすごしました」

役場に集まってバス避難する人々や車で避難所に向う人で、町の中はパニックだった。避難した先では避難所をたらい回しにされ、やっと入れたと思ったらそこも避難区域になるなど、避難所を転々とする人々も続出した。津波被害者救助や養護施設の避難補助等にあたっていた消防団にも避難命令が下る事態となっていた。

「最初の避難当時、消防団の友人が老人ホームの人達を避難させていて、無理な移動や食べ物がない中で、既に数人は避難所で亡くなっていたそうです。そのうち消防団も解散して避難すると連絡が入り、入れ代わりで自衛隊がくるから、お前たちも(お年寄りを置いて)すぐ逃げろと。でもその友人は結局自衛隊が来るまでお年寄り達と残ったという誇らしいヤツです。電話先で家族は泣いてたそうですけどね」

ラジオから流れる情報は深刻さが深まり続け、避難指示範囲も広がっていく中で、彼と両親は13日に避難することを決めた。自宅は第一原発から9km、第二原発から2kmの距離にあった。第一原発で爆発があったことは知らぬまま、避難前に彼はビデオカメラを持ち、町の被害の状況や津波の被害などを撮影した。その時点でまだ津波による安否不明者がいたとは知らず、彼はカメラを回し続けた。避難経路を確認するために立ち寄った警察や消防署でさえ人の気配は既に無く、町は平山さん達を残して静まり返っていた。

結局何の情報も得られないまま、彼らは車で出発し、迂回路の看板に助けられながらいわきへと向った。その途中、唐突にそれまで圏外だった携帯が繋がった。心配した友人達から何十件ものメールが舞い込む。

「平山大丈夫か」「生きてるのか」「はやく逃げろ」


* * *

いわきの親戚宅に避難後、彼は市内にある友人のライブハウスのネット環境を借りて情報をかきあつめ、富岡町民の安否不明者の情報伝達や救援物資の手配などをしながら、リリース直前だったCDのジャケットデータ作成を続けた。「絶対5月にリリースする。延期はしたくない。」その気持ちが、いわきへの避難後の彼の支えの1つともなっていた。(その後結局リリースはやむを得ず1ヶ月延期に)

当時、屋内退避勧告により、いわきからも人影が消え、絶望感を孕んだ空気が町を覆っていた。彼は、友人に自転車を借り、誰もいない街中を動き回った。ガソリン不足を懸念して車での移動は控えていた。街中では人々が川で水を汲む姿があり、避難所には人が溢れていたが、予想していたよりも人々には平静さが感じられた。

「FMとかでも当時一番言われてたのは"出来ることを1つづつ、周りの出来ることからやるしかない"ってことで。それで自分もネットを使った安否確認やブログでの発信をし始めた。避難所を回って、どこで何が必要なのかといった情報を集めて伝え、東京の友人達が物資集めを協力してくれました。当時は"あの避難所は餓死寸前、どこの病院は死者続出"なんてデマも流れて振り回されたので、実際に行って確認した情報を発信をしていました。

いわきに来て最初の1週間は、絶望感、喪失感に負けそうになりましたね。自分の力だけではどうしようもない中「何もかも失ったのか?ここで何と戦ってんだろう?何の為にやってんだろう?」って何回も泣きそうになりましたよ。避難先でじっとテレビだけみてたら、たぶん気が狂ってたと思う。こんな状況の中でも、何かやらなきゃいけないっていう突き上げてくる思いがあって、それで動き回っていたんだと思います」

安否確認作業を続けていた彼は、ある日、東京にいる先輩が行方不明の両親の捜索願を出しているのを見つけ、先輩に電話をかけた。馴染みのある声が電話の向こうから届く。「勉か!生きててよかったな!」緊張の糸が解けた瞬間だった。平山さんの目からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。先輩の両親は津波で流され、見つかったのは自衛隊の最初の行方不明者捜索が行われた4月半ばになってからのことである。遺体は自宅近くで見つかった。もし原発事故が無かったならば、震災翌日には見つかっていただろう。

「もしかしたら、あの日映像を撮りにいった時、まだ生きていたかも知れない。もう少し映す範囲を広げていたら、発見できたかもしれない」平山さんは俯く。

平山さんは後日「富岡インサイド(※1)」という富岡に関する情報を発信するサイトを立ち上げ、富岡町へも公益立ち入り申請等を使い何回も入りながら、震災後の町の現状の動画や画像、支援情報などを発信し続けている。

「富岡でビデオなんか撮ってると、警察に職務質問されるのはざらです。警戒区域内での盗難事件が多発してましたからね。当初はまだ圏内の放射線量がどれくらいなのかわからなかったので、中に入るのはさすがに怖かったです。もう、町はゴーストタウンそのものですよ。日が暮れたら町の中が本当に真っ暗。しかも道路が地割れや陥没だらけで、パンクした車がゴロゴロ転がってて・・・あの人たちどうやって逃げたのかな。あんなところに牛が出てきたら絶対ぶつかってたな。家畜は当初は町の中にはいなかったんです。惨状を見かねた動物保護団体の人や牧場主自らが離したりして、それで、豚とか牛とかが町の中を歩くようになって。大熊のダチョウが南下して富岡の駅前でウロウロしてたのも有名になりましたよね。残された家畜の惨状は自分も目の当たりにしました。それはもう地獄です。今は放浪してた動物達も殺処分されたり、部分的に集約されて面倒をみる人がいたりするので、町中からはだいぶ少なくなりましたけどね」

富岡町に入るたび、昨日までここにいたような錯覚が起きる。散乱したままのガラス、カビが生えた壁、雨漏りなどの光景が目に馴染むにつれ、彼は現実へと引き戻される。そして、彼はやがて富岡へ戻る日のことを思う。これらを片付け復旧する大変さを思う。父のホテルや母の割烹。両親が一代で何十年もかけて築いてきたものを、ここで失うわけにはいかない。「絶対に、帰ろう」その思いは、覚悟とともに、深く深く刻まれてゆく。

「事故収束の作業員や除染業者達の宿泊施設としても、何年先かは分からないけれど、再開することが出来るのならば、それは地元に対しても貢献出来ることの1つだと思っています。実は水面下ではもうアタリも来てたりします。朧げながらでも先が見えてきた事で、必ず帰るという決意は揺るがないですね。自分のためにも、事態の収束のためにも、町のためにも」

富岡町の中心部にある月の下交差点歩道橋には「富岡は負けん!」という横断幕が掲げられている。NTT富岡ライブカメラ(※2)からインターネット配信され、全国でリアルタイムで見ることが出来るこの場所に、平山さんがメッセージを込めて取り付けたものである。

「震災に負けず、町として必ず復興する。全国に散らばる富岡町民にも強く生き抜いて欲しい」

2012年4月の爆弾低気圧の影響で一度ボロボロになり、彼はすぐに2代目と入れ替えた。第一原発に通う人や、一時帰宅等でこの場所を通った人なら、きっと目にした事があるだろう。事情を知った人からは「勇気をもらった」「頑張れ」という激励のメッセージが届き、逆に平山さんを勇気づけるものともなった。メッセージを通じて同じ思いを共感出来る事が何よりも嬉しかった。それだけに国や町の対応の遅さに、やり場のないもどかしさが募る。

「いずれ、富岡町も含めた双葉郡全体が過疎化することは避けられないでしょう。危険地域は廃町、合併だってありうる。今後、子どもたちが戻って来ることはまず無いんです。戻るのは、余生を生きる高齢者とか、中に事業所がある自分みたいな限られた人、そして原発の収束や廃炉に携わる人だけ。若い人達が戻るわけがなくて、人口が激減するのは目に見えてる。であれば、町民それぞれの幸せを考えたら、移住してもらって一日も早く新しい生活環境に馴染んでもらう事だって大事ですよね。それが双葉郡のどの自治体も、自治体を維持する事に必死で、将来像を描けないままでいる。まあ結局の所、帰るも移住するも個人の自由なんですけど、その見通しが甘すぎるというか・・・。そんな住民置き去りの町政のおかげで、避難先で色んな軋轢が生まれてきたり、避難という状態が長引く程、町民が疲弊していく姿は手にとる様にわかります。自分も今の環境でただ普通に生活しようとするだけで、理不尽な事にぶちあたったりする事は沢山あるんですよ。表には出さないだけで。

中間貯蔵施設の問題もあります。候補地が双葉、大熊、楢葉で何故か富岡は外れている。全く意味不明ですね。双葉や大熊の高線量地域で施設を作る工事するんですかね?建設業者に被曝させながら?であれば、むしろ富岡のある程度線量の低い、工事可能な地域こそ最適地だと思うんですけど。当然各町で賛成、反対いろいろな意見がありますが、個人的には賛成ですね。っていうか"やるしかない"と。福島県内の学校や公園の除染した廃棄物を、そのまま子供がいる近くにドーンと置いておいて良い訳がない。割り切って施設を受け入れれば、助かる地域は福島県内だけじゃないんです。廃棄物の仮置き場に困って除染が進まない地域だって先に進むことが出来る。ガレキ処分場を作って東北のガレキを全部受け入れたっていいんじゃないですか。自分たちのことだけを考えるのではなくて日本全体の事も考えて決めるべきだと自分は思う。もちろん反対する人の気持ちも分かるけど、事態はもはや個人の我がままを聞いてる場合じゃないところまで来てる。最近では30年は帰らないけど中間貯蔵はいやだっていう某町長とかいますけど」

平山さんは続けた。

「自分たちの経験を伝えるのはある意味で被災者としての義務だと思う。自分たちがどう復興に向かうのか、そのプロセスや記録を伝える事も大事だし、経験を今後に伝え、生かすことも必要。支援してくれた方への報告義務もね。それに、発信し続ける事によって色んな人と繋がり、その繋がりが広く、深まっていくことは大きな収穫です。

音楽面では富岡に帰ってきたときから地方発信の必要性を掲げていたので、歩みを止めずやっていきたいですね。この2年間の避難生活の中で、レーベルとして5枚のアルバムをリリースする事が出来ました。家がなくても体一つあればできる仕事。これからもより地元密着を目指し、底辺を育て、才能ある人たちを生みだしていきたいですね。良くも悪くもこの福島でやってる事に大きい意義が生まれてしまったとも思う。吹けば流されてしまうような"音"に感動し、生きている実感が湧いたりする。そうやって感動するから人間であり、人間であれば、感動を求めて生きたい。音楽に求めるものはシンプルに言えばそれだけ。

自分一人、全部捨てて東京に戻ってしまえばと考えた事もある。でも立場的に後戻りはできないし、富岡、そして福島という場所の行く末をここで見届けていきたいとも思う。またそうする義務もあると思っている。そこに自分の新たなアイデンティティが生まれてしまったんですよ。」

平山さんの心に残る、富岡の風景がある。
海岸のその先に、海面からスッと立ち上がるように伸びる、小さな島。
てっぺんには樹が1本、生えている。
それはまるで、灯がともった蝋燭のように見えた。
富岡の人々は、その名前も知らない島を「ろうそく岩」と呼んだ。
その小さな島は、あの日、津波で消えた。

それでも、その姿は人々の心の中で、
失われてもなお、灯をともし続けている。


※1 富岡町応援支援情報サイト「富岡インサイド 」
http://www.tomioka.jpn.org/

※2 NTT富岡ライブカメラ
http://www.nttfukushima.com/live/tomioka/Default.html

Nomadic Records
http://www.nomadic.to/