ph_010_01.jpg片手でコンピューターを押さえ、もう一方で患者さんを押さえる。揺れはなかなかおさまらなかった。美恵子さんは病院で産婦人科の看護士として働いていた。「このまま死んじゃうかもしれない。なっちゃん!」小学校にいる子供のことを想った。

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体育館では卒業を祝う会が行われていた。なっちゃんが6年間休まず通った小学校もいよいよ卒業。お母さんは病院、お父さんは神戸にお仕事。でも春休みにはなっちゃんの卒業祝い家族プランがちゃんとあるのだ。家族みんなで楽しみにしていた。

1年生の時からのスライドショーが流れ始める。「こんな想い出あったね。」6年生同士ワイワイと見ていた時だった。体育館が揺れ始めた。子供達はイスの下に入って体を守り、それから体育館の横の開いてるドアからどんどん校庭に飛び出して行く。校庭に走り出ると、子ども達は強そうな子の周りに集まり、体を寄せ、抱きつき合った。揺れている間中ずっと、女の子も男の子も声をあげ、泣いた。

お迎えの大人が次々とやってきた。なっちゃんのお迎えはなかなか来ない。涙がこぼれる。「そうだ、先週、中学生になるお祝いでお母さんがくれた携帯が家にある!」なっちゃんは走って家に戻り、貰ったばかりの携帯を手に学校まで再び走った。電話はやっぱり通じない。懸命にお母さんにメールを打った。

" こわい さむいよ おかあさん "

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病院は非常事態だった。建物にひびが入り建物が危険である事が伝えられた。「とにかく患者さんの命を守ろう、早く患者を全員外に出すんだ。」医者も看護士も事務員すべて一丸となって、ベッドを移動し、呼吸器付けた人たちも担架にのせ、階段で運んだ。男女関係なく1階から8階まで階段を一気に駆け下り、また一気に駆け上がる。ありったけの毛布を探し、寒空の下にいる患者さん達に毛布を配って回った。

合間をぬってメールするが届かない。暫くしてなっちゃんからのメールが届き、娘の無事を知る。"なっちゃんごめん。1人にしてごめん。"家に戻れる患者さんたちは家に戻ってもらい、帰れない患者さんを再び担いで病院の中へ運び込んだ。足はガクガクだった。

"生きてる?" 神戸にいる夫の匡明さんからメールが入る。神戸とはメール通信が出来た。なっちゃんを誰かが迎えに行かなければ。匡明さんの母は豊間で津波からの避難をしている事が分かった。美恵子さんの父も母を介護していて動けない。美恵子さんの姉にお願いすることにした。

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校庭で、なっちゃんは最後の1人だった。夜8時を回り、迎えに来てくれた叔母さんと一緒になっちゃんは家に戻った。

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夜10時、美恵子さんが帰宅。待っていたなっちゃんをぎゅーっと抱きしめた。そのまま腕の中で、なっちゃんは疲れて眠ってしまった。「子供を守りたい、なのに子供の側にいられなかった。命があってくれてよかった。」この仕事について初めて、自分の職業を悔しく思った。

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匡明さんは神戸からいわきへと車を走らせ、一晩中運転し続け、1日がかりでようやく市内へと入り、避難していた母を迎えに行った。豊間の津波被害は驚くような甚大さだった。津波で親戚が亡くなった。言葉も出ない。美恵子さんとなっちゃんに伝えよう、とカメラを手にした。「こういう状況もあったという、その現実も知り、忘れてほしくない。これからの子供達がこの土地で生きていくためにも、伝えておかなければ。」

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震災の翌朝から美恵子さんの仕事は始まった。看護士の仕事は休めない。戻って来た匡明さんは言った。「患者さんが待ってるんだから頑張って行って来な。なっちゃんは僕が見てるから大丈夫。」美恵子さんは、家族に支えられていることを感じた。「行ってきます、お母さん頑張ってくるよ。」

病院には地震と津波の被害を受けた急患が次々と運び込まれてきた。多くのスタッフが急患に回り、病院は24時間体制で患者を受け入れ、先生達は寝ずに治療を続け、家が流され避難所生活の看護士さんも出勤し、県外からも先生が駆けつけた。美恵子さんは毎日おにぎりを作って持って行った。産婦人科は、急を要する妊婦さんをヘリを使って移送。他の病院の妊婦さんも来ていた。

さらに放射能問題が深刻になると、退避する妊婦さんからの連絡が殺到。先生が指示を飛ばす。「とにかく早く逃げなさい。県内ではだめだ。出来るだけ遠くに。行った先で病院が見つかったら電話をしなさい。」

「なっちゃんはどうする?」突きつけられる退避の問題。「家族でいたい。離したくない。もうこれ以上なっちゃんを1人にしたくない。」美恵子さんと匡明さんは、ネットとテレビで調べた放射能情報をもとに夫婦で話し合った。「放射能を浴びなければいい。無理して知らない所に1人で行っても、気を遣って子供はストレスが溜まる。だったら家族一緒にいよう。家族で過ごそう。」そう決めた。いわきには父も母もいる。自分たちだけ逃げることも考えられなかった。父は母の介護で動けない。美恵子さんを必要とする患者さんもいる。

毎朝、地震情報と数値を携帯で確認し、靴の泥を拭い、ホコリも家に入れないように注意。外に出る時は完全防備。出る時はマスク。なっちゃんは車からは出さない。玄関にナイロン袋を置き、戻るとマスクはその中に捨て、玄関でバッサバッサと見えない物質を払い落とし、衣服を替える。出来る限り家の中で過ごす事にした。

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「福島県民全員が被災者だと思う。」放射能との日々を思い、美恵子さんはうつむく。

「後から出される情報を見ると、避難させてあげた方が良かったと思う時もあります。自分たちはいい。子供の将来を考えたら。この子がどうなるのかなって。政府の事情も分からなくもない。でも、そこにいた沢山の人達のこれからのことはどう考えてくれるのだろう?って。ヨウ素は半減期で少なくなったからそんなに心配しなくていいよって病院の先生が言ってました。定期的に甲状腺の検査をしていけば大丈夫だって。でもセシウムはまだ発がん性物質としての影響がわかっていないだけに不安。20年後30年後も、ちゃんと国で追跡調査してもらって、しっかり考えていってほしい。」

この春なっちゃんが入学した中学校から、親にアンケートが配られ、「お子さんを外に出していいですか?」「いい」と答えた家の子どもは校庭に出て走り回り、「ダメ」と答えた家の子どもは体育館や教室の中で運動をすることになり、なっちゃんは、校舎の中で一日を過ごすことになった。

「私はやっぱり恐い。マスク付けてる子も付けてない子もいるし、お友達は「そんなにやんなくて大丈夫だよ」っていう子の方が多い。でも、窓から外を見て、校庭を走っているお友達をみると、その子たちのことが心配になる。」

美恵子さん達は3月11日以降、遊びに出かけなくなった。最初は危機意識で動いていて、気がついたら、ウキウキしたり、心の底から笑ったり喜んだり、何かの目標に向って行く、そういう気持ちが持てなくなっていた。"変えなくちゃ"と思う。でもなかなか切り替えがきかない。

「放射能の問題が起きてから、「先の事は分からないから今を大切に生きよう」って思いと、「どうでもいいや」って投げやりな気持ちと、なんか両方あるねって良く話すんです。自分がなぜここにいて、なぜ福島県で、なぜ浜通りのいわきにいるの?って。

食材も地産地消で買った方がいわきのためにはいいと思うけれど、食べさせていいかやっぱり心配で。最初の頃は食べてたんです。徐々に情報が出て来て、知るとだんだん食べられなくなって。今は買う時も産地を確認しています。スーパーで出してるものは大丈夫だろう思っても買えません。

じゃあ避難?って考えた時に、環境を変える事が子供には必ずしもいいことではないと思うし、自分の両親、夫の母もいて自分だけ動くことは出来ない。仕事の問題もお金の問題もある。国が全員を動かすならいいけれど。

ただ、自分たちの選択が正しかったか間違っていたか分かりません。将来この子達が大人になって、戸籍上が福島県、いわき市ってだけで、疎外感やいろいろな問題が出てくるかもしれない。「もう福島県の人と結婚するしかない」ってお父さんは言うんです。「放射能は普通の問題ではないんだから、そういう風に物事を見て行けよ」って。それでもここで暮らすことを選択したから、目を逸らさずに流れをずっと見て行こうと思います。」

横にいるなっちゃんも複雑な気持ちのままだ。「放射能の問題で避難して他の地域に行っても、「福島から来た」って言うといじめられるって聞いたこともあるし、ふるさとから離れたくないって、友達とも一緒に、ずっとここにいたい。でも将来の事が心配で、未来が壊れるのが不安で、ずっと生きていたいって思って、まだ自分の中で迷ってる。」

情報を見て許容範囲で生活が出来るならそれでいいけれど、不安の中でいるんだったら避難した方がいいと言う病院の先生もいる。その不安はずっと続くものだし、精神的ストレスもずっと受け続けることになる、と。しかし、一時の退避生活は出来ても、退避先で長期間の育児が出来るのか?経済的にやっていけるのか?二重生活が出来るのか?問題は尽きない。残らざるを得ない人たち。また実際には、退避したお母さんの多くが家族のいる地元に戻って、お産や子育てをしている。

「当たり前のものが当たり前じゃなくなってしまった。物もそう。人もそう。家をなくした人、お腹に子供がいるまま流されちゃった患者さんもいる。そんな状況の中で、人と人の関わりとか、患者さんのちょっとした心遣いで救われたことも沢山あったし、協力しあって、優しくなり、穏やかになり、絆が深まって越えて来れたことも多かった。少しずついい状況にするために、1人1人がそういう気持ちで関わって変えていくしかない、ここにいる人がどうにかするしかない。だから自分の出来ることをとにかくしよう。出来る範囲の事をしていきながら、好きなこの土地で、私は職業人として、大変な時にみんなに少しでも勇気づけをしたり言葉をかけていこう。患者さんが少しでも安心した思いで新生活が出来れるように、不安な声は聞いていこうって思っています。それでも親だから子供も守りたい。現実はもどかしいですね。」

小出しにされる情報。日々変わる状況。何を信じたらいいのか分からない。しかし発表される情報をある程度信じないと、ここで生活していくことは難しい。
「身を守る情報を自分で取ってそこに注意していくこと。それが一番の懸命策かな。恐いだけの情報だけでもダメだし、行き過ぎな情報もダメ。"自分で自分の身は守る。"その事は親として伝えて行こうと思う。」

そう話す美恵子さんの側でなっちゃんは少し下を向いて考え、それから笑顔を向けた。

「私は、これは強くなる試練なんだって思う。
今度は私が誰かの支えになってあげる番。」