ph_008_01.jpgその土地に育った牧草を食べさせ、放牧しながらゆっくりと育てる。その牛から搾った新鮮なお乳からチーズを作ろう。自分たちが食べたいもの、そして家族も喜ぶもの、それを地元の人にも味わってもらい、顔を見てコミュニケーションをとりながら喜んでもらいたい。人との繋がりを大事にしながら、地産地消でその土地に根ざして生きていきたい。

そんな夢を抱きながら土地を探していた福元夫妻が田人町貝泊での移住の受け入れを見つけたのは、3年前のことだった。15年以上放置されっぱなしだった牧場は薮の山と化していた。でも2人にとっては希望の新天地。"ふくふく牧場"そう名前を付け、夢いっぱいに貝泊の地を踏んだ。

まずは住む家作り。事務所を2人の家にするための手作りの改造。壁を切って窓を作り、コンクリートむき出しの床に板を張った。外壁に断熱材を入れて貼り、薪ストーブを設置し暖をとった。ボコボコの山道には建築現場から砂利をもらってきて大きい石をトンカチで砕いて細かくしながら敷き詰めた。近所の人が古い浴槽を貰って来てくれて、灯油で入れる風呂も設置された。

そして、牛を飼うための放牧地作りが始まる。薮を払い、木を剪定し、放牧地を作り、畑を作った。生計をたてるため、夫の紀生さんは山仕事から土方や新聞配達をしながら、教員をしていた妻の奈津さんは、産休育休の先生の代わりとして入り、その後は小学校の非常勤講師として子供達を教えながらの開拓生活だった。

あっというまに1年が過ぎ、翌年の8月にやっと2人の待望の牛が牧場にやってくる。"ふくふく牧場"のオープンだ。牧場の中を牛が歩き、その糞がまた土に還って循環していく。子供達が遊びに来たり、外でのんびりしたり、その横で野菜や冬用の牧草を育て、秋には草狩り機で刈ってビニールハウスの中で干し草にした。

翌年には2人のチーズ作りも本格的に製品化への一歩を踏み出し、貝泊に来てから3年目、2010年の秋にようやく、念願のチーズが販売開始され、奈津さんの次の夢はふくふく牧場のカフェオープンだった。手作りチーズを扱ってくれるところも増え、お客さんが徐々に増え始めていた。

その日は小学校の卒業式だった。生徒を見送り奈津さんが家に戻ると、テレビの取材を受け終えた紀生さんが一息ついていた。地震が起こった。テレビを付けると北の方の津波の映像が流れていた。まるで映画のような光景だった。牧場はさほど大きな被害もなく、実感のないままその日を過ごした。原発も心配にはなったが、テレビでは「大丈夫。」と言っていた。

事態の大きさを感じ始めたのは翌日以降のことだ。近所の友人を訪ねると避難の準備を始めていた。チーズの配達予定のお店へ電話してみると、市街地も店を開くような状況ではないことが分かった。テレビは相変わらず「大丈夫。」を繰り返していたが、東京にいる紀生さんのお兄さんから、「すぐに逃げた方がいい」と連絡が入った。紀生さんは避難のことを考え始め、役所に避難方法の問い合わせをした。「避難させる手段は現段階では考えていません。恐らく出来ないと思います。」それが返事だった。

「国民の命、県民の命、市民の命を守るという意識が行政にはないのか。」紀生さんは愕然とした。そして、「何かあったら、自分たちで何とかしないとダメなんだ」と、腹を括った。「放牧で育てている動物達は、半年は少なくとも生きていられる。まずは家族の安全を考えよう。」そして、16日の朝に避難を開始し、予約した東京のホテルへ車を走らせた。

"もう戻って来れないかもしれない。"言葉には出来ない思いが頭をよぎった。

しかし東京に着いた2人の頭は貝泊の人たちの事でいっぱいだった。残っている人を何とか助けたい。焦燥感で眠れない2人。いわき情報をtwitterでとり、残っている人に情報を流し、支所に電話をかけて様子を聞く。「ガソリンも灯油もない。」その一言でいてもたってもいられなくなった。「一時帰宅でもいい、帰ってみよう。」知人の家に移って3日目、2人は車にありったけのガソリンと灯油を買って積み込み、帰途についた。

戻ってみると、予想外に貝泊は落ち着きを取り戻していた。2人の気持ちはいっきに解れ、牧場の生活が再び始まった。

そして春になり植え付けの季節が到来した。農協からの許可が下りると地元の農家の人達は作付けを始めた。この地域がいわき市内でも放射線数値が高い事が伝えられるが、「一番高いところと比較すれば、こちらはまだ低いしね。」と人々は口にした。

野菜の数値検査数も少なく、何が出荷規制なのかも伝わりづらい状況、家で個別に調べる方法も費用もない。年配の人は、「私たちはもういいんだあ。」、「お米を作っても売れるか分からないけど、自分たちも食べる分がないと困るからねえ。」と言い、笑顔で過ごしていた。山菜の季節になり山菜採りイベントが開かれた。2人は少しづつ疑問が膨らんでくるのを感じつつもイベントを手伝い、何とかこの地域を盛り上げて行こうと人々と話し合った。

そんな頃だった。大きな余震が起きた。三月よりも大きな揺れ。直下型地震だった。貝泊の湧き水は消え沢水も枯れ、山崩れが起きて人が亡くなった。3月11日以降、ドーン、ドーン、と花火を打ち上げるような爆発音が毎日毎晩、山あいに響き渡っていた。それは余震の前触れだったのだ。この余震をきっかけに2人は自分たちのあり方をもう一度考えるようになった。

「他との比較ではなく、しっかりと放射能のこと、この土地の汚染状況を見極めて行かないとダメだ。ちゃんと現実を見よう。」

農業する立場の人は、土に触れ、土ぼこりを吸いながら、雨が降っても仕事をしなくてはならない。そういった被爆量は基準値では全く考慮されてはいない。また、発表される測定値は洗ってからの測定。牧草の値は他の野菜よりもかなり高い上、洗わずに牛はそのまま牧草を食べている。牛乳の線量は当然高い値が出ることになる。循環型の農業の場合、さらにその土地の中での汚染濃縮が進み、放射線物質がずっと残るという悪循環を生み出してしまう。

「この環境下では、自分たちが人に自信を持って売れるものは作れない。外部被爆もある場所で内部被爆してしまうものまで口にしてほしくないんです。応援の気持ちで再開したら教えてと言ってくれるお客さんもいます。でも私たちは売りたくないんです。私たちが今いるのは普通の環境ではないんです。普通の環境ではない中で、普通のスタートは切れないということなんです。

土壌の入れ替えや放射線物質の完全除去が出来るなら留まりたい。でも放牧地の除染は難しいという事が分かってきました。除染自体も自分たちでするしかなく、何十年も一生かけてそれに取り組むことになってしまう。それは、私たちがチーズ作りをあきらめるという事なんです。牧場に子供達を呼ぶ事も出来ません。毎日マスクをして、雨が降ったらわあっと引っ込んで、そんな生活がずっと続くわけです。次の世代の事も考えると、ここにいることが次の世代にも負担になってしまう。私たちが残る事でこの土地が大丈夫だろうと見てしまう人もいるかもしれない。でもそうではない。

だったら別の場所に移ってチーズを作り、夏休みにこっちの子供達を呼んだり、安全な野菜を作って、こっちの子供達に送ったりした方がずっと前向きなんじゃないかと、そう思うようになりました。」

ここでやっていくしかないという人にとっては都合のいい話ではないかもしれない。福島の生産者の間では、こういった声をあげる事は憚られ、思っていても言えないのが実際のところだ。「頑張ろう」という思いは一緒だ。しかし本当に前を向いて歩けている人が一体どれほどいるのだろうか?専門家でも意見が分かれることでもあるが、ここで生きていく人たちこそが消費者に内部被爆のことを言って行かないと、最後には自分たちの首を絞める事になるかもしれないのも現実だ。

どちらを選んでもすっきりしない選択。どちらかを選ぶのが辛い選択。最後まで正しいかどうかは分からない選択。
それを選び取って行かなければならない。

悩み続けた2人は、貝泊を離れる決心をした。

「今までは、希望があって努力すれば何かしら報われると思っていました。でも今回のことがあって、どんなに幸せな生活であっても、こうやって巻き込まれ、奪われてしまうことがあるんだってことが分かりました。自分たちを守っていくためには、面倒くさくても社会に関わっていかなきゃいけないなと改めて思いました。発言する、自分の立場をしっかりと表明するという事が、とても大事な事なのだと。それはすごく小さな事かもしれないんだけど、そこから全部始まって行く気がします。僕は牛を飼いたいし、やっとチーズも製造できるようになって、本当はここでやっていきたい。でも僕にとって、一番大事なのは家族が健康で過ごすことなんです。」

山に入って木の実を取って来てジャム作ったり、自然や四季が美しかった。
子牛が産まれて、牛乳を絞り、外でぼーっとしたり、星をながめたり、
冬は薪ストーブを囲んであたたかかった。
朝起きて鶏の巣を見に行く。「今日もたまごあるな。」
そんな日常の楽しみ。

貝泊の日々。