海まで10分。家が流され瓦礫と化した風景が一面に広がる。

彼女は小学生の娘と一緒に、週に1回か2回、残された野良猫にえさをあげに久之浜へと向う。帰りの車の中で通常の景色が戻ってくると、今見て来た光景は夢だったんじゃないかと一瞬思う。そんな自分にぞっとする。駅前にはミニスカートを履いておしゃれをした女の子達が歩いている。その一方で、今日もまだ瓦礫の中でホコリまみれになりながら家の跡を片付け、いなくなった家族を捜す人がいる。

それが今のいわき。彼女が生まれ育った街である。

ph_007_01.jpg数年前、娘と2人で生きる道を選んだ。母と娘で奮闘する日々の中で震災は起きた。地震、そして水素爆発。彼女の家は42km地点。「一気に体内被爆したら子供が鼻血を出す」といった話まで飛び交っていた。さすがに心配になった。事態に振り回される中、携帯を片手にtwitterで友人と情報を交換しあう。気がつくと友達に支えられている自分がいた。

「友人が「被爆する時は俺たちみんな一緒だ」って言ってくれたんです。それで気が楽になって、大丈夫な気がして、いわきに残ろうって思ったんです」

しかし、15日の午前中に父から山形へ避難しようと電話が入る。「子供たち心配だから一緒にいくぞ」彼女は「私と子供はいわきに残る」と断る。父との問答。友人達も彼女に「行った方がいい」と口々に言った。

残りたかった。友人をいわきに残して離れることが心苦しかった。後ろめたい。なんかそばにいたい。ただ側にいて、励まし合って残っていたい。

「ごめんね山形にいくね」と連れられるようにして乗った父の車の中で、友人に泣きながら電話した。「生きていたらまた会えるんだし、まずは生きてよ」友人の言葉にまた涙が流れた。

山形に行っても友人のことばかり頭から離れなかった。twitterでいわきの様子を見、何も出来ないことが歯がゆく、いてもたってもいられない気持ちになった。いわきに帰りたいという気持ちは日に日に強まっていた。「いわきのために何かしたい」。
数日考えた。自分に出来ることは写真を撮ることだと思った。5日目に、彼女は娘と2人で戻ることを決意する。


いわきに戻り、いつも写真のことを相談している写真屋さんの自宅を訪ねるた。先生と呼んでいるその人は、売り物用のフィルムを大量に手渡して言った。「お店のフィルムを全部使ってもいい。写真を撮って来なさい。」背中を押されるように、海へと向かった。

6号国道を上って四倉を通り、久之浜へ。
国道を津波があがって一階をえぐり撮られてしまった家や、屋根だけ残っている家やひっくり返った車を避けながら、車で北上した。初めて目にする津波の被害。いわき市も海岸はこうだったのかと驚く。

シャッター何回切ったらわからない。撮りきれない。2週間何をやっていたんだろうと、彼女は今までの時間を悔しく思う。焦げた電線や人目につかないような細かいところまで写真に収めておきたいという感情が湧き起こる。同時に被災地の写真を撮る事に対する迷い、ここで生きた人を思うとシャッターを押すのにも気持ちが痛んだ。

その気持ちを見透かすように、津波の跡を片付けていたおじいさんが彼女に声をかけてきた。「ちゃんと写真に残してね。」その一言で、彼女の中に撮ることへの覚悟が生まれた。「いわきに生まれ育った人間の1人として、地震の爪痕や風景を見た方がいい。復興に携わる気持ちも変わる」。写真仲間の言葉が蘇る。

「自分が正しいと思ったことをやるしかない。
自分で決めてやるしかない。たとえ非難されても。

一枚一枚ちゃんと残そう。ちゃんと残して後世に残して行こう。今回たまたま私がこのいわきにいて、たくさん亡くなった人もいて、私は生きている方の道を歩ませてもらった。命与えられたものとして後世に伝えられることは私の役目だ。

フィルムは何百年も残る。ここで起こったことを、いわきで震災があったという歴史を、事実として、私はフィルムで撮って残そう。」


彼女は無我夢中で写真を撮った。
いわきの記録、そして、記憶に残るような、心に残るような写真を。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本性と、"人の底"が見えた震災。"仲間"という存在。

一緒に避難所の子供達への支援物資を届けたり、共に誰かのために何かをする。
みんなで集まって、笑う。

「一番の防災ってまず自分が健康でいることなんだよ。自分が健康でないと生き延びられないし、人を助けることも出来ないでしょ?」そんな友人の言葉にも元気をもらう。防災グッズや水の確保や薬の常備ではなく、基本的で一番大事なこと。自分を大事にする事。頼っていい、1人で頑張んなくていい。大きな意識の転換。「震災にあったけれど、いわきに住んでいてよかったと思った。励まし合える仲間にも恵まれた。だからこそ、子供達が笑顔でいわきにいられるようにしたい」と彼女は願う。

子供たちの意識も変化しつつある。双葉や久之浜から来て、家に帰れない、ジャージも買えない子供達と一緒の生活で学ぶこともある。しかし母親たちにとっては子供たちに何がベストなのか悩む日々が続いている。

「確実に放射性物質が飛んで来てますし、学校でマスク着用で来て下さいと言われていますが、二ヶ月たって今はマスクしてない子供の方が多いくらいです。危ないよ危険だよ、とテレビで言っていても目に見えないので、子供にはなかなか理解出来ないみたいです。実感がないし、毎日発表される数値もどういう風に理解していいか分からない。私も、10年後20年後に娘が癌になってしまったらどうしようという思いはありますが、どう対応していっていいかは分からないのが正直なところです。」

原発ので働いている友人から原発の収束のための業務から「今ようやく原発から出て来れた」というメールが来る。一方で、家に戻れないで避難所にいる友人もいる。また、引っ越して行った友人も。

いろんな立場の気持ちが同時に存在し、どの気持ちも彼女の一部でもある。"ここにいていいのか、避難した方がいいのか、どうしたらいいのか。"

「子供にとっては過剰なことがストレスになりますし、変なデマに流されるのは避けたいです。だって、マスクして帽子かぶってナイロン性のもの着なさいとかなると、子供は余計に恐くなっちゃうじゃないですか。給食にしても、野菜だけでなくその牛乳は大丈夫なのかとか少なからず考えますが、それを口に出してしまったら、子供は不安で何も食べられなくなってしまう。だから子供には不安にさせるようなことは言わないんです。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・