ph_006_01.jpgアトリエだけが津波から守られた。数段の階段を下ったところにある母屋は津波を受けぐちゃぐちゃだった。豊間の海岸から600m。瓦礫の中に残されたアトリエに、今、義則さんとお母さんは住んでいる。

義則さんは絵描きである。五月に開かれるいわき美術協会展に向けて、作品制作に集中していた。油絵の抽象画。120号の大きい作品だ。毎日アトリエにこもって時間をかけて描いてゆく。

この日も絵を描いていた。尋常ではない揺れ、母屋にいる母が心配になりすぐに外に飛び出した。母屋の庭の真ん中に、90才になる母がうずくまっているのが見えた。階段を下り、母の横に寄り添うように隣にしゃがみこんだ。

目の前の築100年になろうとする古い母屋はゆっさゆっさと揺れ、ギシギシと軋んだ。門柱や塀の大谷石は揺れ崩れていった。2人は並んで庭の真ん中にしゃがんだまま、住み慣れた景色が音を立てて崩壊していくのを、ずっと見ていた。

ようやく大きな揺れが収まり、散らばった門柱の間から表へ出る。並ぶ家々の石塀や蔵の土壁も崩れ落ち、道が塞がれていた。「まずは通れるようにしなければ。」義則さんは近所の家と行き来しながら、道路の石や壁や瓦礫を取り除く作業にすぐに取りかかった。

救急車が津波からの避難を呼びかけに回ってくるのが聞こえた。急いで家に戻りひとまず毛布だけを車に詰め込む。水も持って行こうと蛇口を捻るともう出なかった。

ゴーーーッという音が聞こえた。夜に聞こえる海鳴りの音に似ている。「津波だ!」

車にエンジンをかけ、母と乗り込む。片付けた道路を通って国道へと進み、塩屋崎の避難場所までいっきに車を走らせた。

塩屋崎には200〜300人の人々が集まっていた。ストーブは3、4つ見えるが、その人数が寒さを凌ぐには少なかった。義則さん達は車で過ごすことにした。避難して来た人でごったがえす中で出会った親戚と一緒に車に乗り込み、毛布にくるまった。彼女が持っていたチョコレートと飲み物を三人で分け合った。みぞれが降る寒い三月の夜だった。

「豊間も薄磯も何にもねえ。」翌朝そんな話が届く。

「そんなわけない。」にわかには信じられないまま、母を車に残し、歩いて自宅へと向かう。裏の雑木林を抜けるとアトリエが現れた。無事だった。

しかし、アトリエの向こうには凄まじい光景が広がっていた。積み上がった瓦礫、庭には5台くらい車がつっこみ、道路も庭も瓦礫で埋まっている。瓦礫を踏み分けて母屋へ行き中を覗くと、何もかもが泥にまみれ、物が散乱し重なり、畳は波で持ち上がり部屋を塞いでいた。波が壁の1m近くの場所に黒い線を残しているのが見えた。

呆然としたまま、家のまわりへと歩き始めた。

近所の酒屋さんがあった場所に通りかかると、70歳半ばくらいのお年寄りがひょこっと現れた。下着姿にタオルケットを被り、裸足で、足には血が滲んでいる。急いでアトリエに連れて行き、二階から自分の服を引っ張りだしてきて着せた。車で来ていた人を見つけ、連れて行ってもらうよう頼んだ。

また少し行くと、4軒先に住んでいた家族の息子さんが立っていた。「おっかあいねえんだ」彼は言った。「じいちゃんの手を引っ張って歩いてたら、来ていると思ったばあちゃんの姿が見えなくて、何かをとりに家に戻ったみたいで。波が来るのが見えて、じいちゃんとそのまま逃げたんだ。」そう言うと、彼はまた瓦礫の山へと分け入っていった。

その数軒先から、おじいさんがおーいっと叫んでいる。「嫁さんが肋骨折って動けないんだ。助けてくれ。」遠くに自衛隊の人たちの姿が見え、救助を呼びに向かった。戻りかけると、また津波が来るぞ〜という声が聞こえて、急いでその場を後にした。


その日から、体育館での避難生活が始まった。おにぎりは1日に2個。高齢の人に支給された布団で母をくるむ。とにかく寒い。さらに原発事故のニュースが入ってくる。義則さんは福島第一原発で昨年からプルサーマルが稼働開始しているのを知っていた。「もしかしたらチェルノブイリくらいになってしまうかもしれない。」東京の友人や元東電の友人から「逃げた方がいい」と続々メールが入った。しかし逃げるにも、行く当ても無い状況で90才の母に無理をさせるわけにはいかない。残るしか無い。避難所で寒さとひもじさに耐えながら日々を過ごし5日がたった。

すでに避難していた友人からメールが入った。「今新潟にいます。ご飯も3食あるし今日は幕の内弁当。温泉も入れるし、あったかくて半袖で過ごせています。ぜひ来た方がいいよ。」

気持ちが動いた。隣組に声をかけ相談し、5人での新潟行きが決定した。5人のガソリンを車2台にかき集め、17日の朝、新潟へと移動を開始。会津でガソリンを補給、夕方に新潟の五泉市の福祉センターの保養所にようやく到着し、迎え入れられた。1週間ぶりくらいのお風呂とあたたかいご飯、あたたかい部屋。疲れきっていた心と体にすべてが染み入るようだった。

翌日、五泉市が準備した体育館へ移動。ここもまた新しく、あたたかく、恵まれた施設だった。お年寄りにはベッドも準備され、ご飯もお弁当3食。時には中学生がカレースープの炊き出し。マスクやひげ剃り、下着など、必要なものはなんでもあった。フルートの「ふるさと」の演奏や朗読で涙を流した。オープン間近の施設がピカピカのお風呂を特別に使用させてくれ、車で五分程のところにある温泉の無料券も配られた。保健婦さんが体育館に来て、持病の薬が必要な母に病院も紹介してくれた。薬の手帳を見せ一ヶ月分を出してもらうと、母も安堵の顔を見せた。

そんなある日、洗濯をしに街に出ると、義則さんは街でギャラリーカフェがあるのを見つける。共通の美術の話。ひとときの安らぎの時間。お代はいりません、と、オーナーはお菓子まで渡してくれた。オーナーは義則さんのところを訪れ、「気晴らしにハイキングに行きませんか?」と義則さんたちを誘った。週末のハイキング。10人程で山に登り、昼には焼き肉とビールを飲んで寛いだ。

「まるで夢のような日々だった。」

地震、津波、そして放射能の恐怖に追われ、辿り着いたこの地で、深い安らぎを義則さんたちは感じていた。

五泉市の人達の優しさに満ちた気持ちを胸に、4月2日にいわきに戻る。まだ電気も水道も復旧してはいなかった。親戚の家で寝泊まりさせてもらいながら、アトリエを仮の住居として住めるよう準備し始めた。4月半ばに電気が開通し、アトリエの生活が始まった。水道が出るまでの間は友人が水を運んでくれた。友人がプレゼントしてくれた高圧放水ホースで母屋の泥だらけのお風呂掃除を試み、母屋のお風呂も蘇った。毎日ボランティアの人達が手伝いに来て、一緒に瓦礫を仕分けし運び出す作業も進んでいる。着実に生活は前に進みつつある。

「流れて来た瓦礫を意地でも焚いてやろうと思って。」アトリエの薪ストーブを見ながら不敵に笑う義則さんは、力強く見える。「落ちついたら、五泉市でお世話になったギャラリーでお礼の気持ちを込めて個展をしたい。行って、お礼の挨拶をしたい。」

パタパタと足音がして、90歳のお母さんが嬉しそうにアトリエへ駆け込んで来た。「きれいになりましたー。」「よかったあー。」一同で喜ぶ。

外に出ると、母屋の庭にあった瓦礫が重機で取り除かれ、きれいにまっさらになっていた。そして、以前は家からは見えなかったという海が、庭の向こうの果てしない瓦礫の風景の向こうに、青く広がっているのが見えた。まだまだ先は長い。すべては始まったばかりなのだ。

足下を歩き回っていた鶏が、コケコッコーと鳴いた。


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