ph005_01.jpg五時限目が終わり、ナナちゃんはいつものように家に戻り、宿題やろうと机に向った。市営住宅の3 階。両親と6人兄妹の大家族で住んでいる。この日家には小さな妹2人とお母さんと2 番目のお兄ちゃんがいた。テレビが流れ、いつもと変わらない午後が過ぎようとしていた。

突然の揺れが襲う。棚が倒れ、物が散乱し、壁は音を立てながら軋み、部屋と部屋を横切って天井に亀裂が走った。

ナナちゃんはお母さんのいる居間に駆け込む。お母さんは両腕に妹たちを抱えて叫んだ。「危ないからお靴履いて外に出るよ!」揺れ続ける部屋をよろつきながら、ナナちゃんはお兄ちゃんとお母さんから離れないよう玄関に向かった。靴を履き、外へ出る。安全な場所まで離れ、下校途中だったお兄ちゃんと弟を探した。2人とも無事だった。

「また大きな揺れが来たら家が壊れてしまうかもしれない。」ナナちゃんたちは家には戻らず避難所に行くことに決める。集まって来た人々から、津波が来ているとの情報が入った。お母さんはお父さんに何度も電話をした。原発関連の会社で働いていたお父さんの職場は海の近くだ。「無事でいてお父さん!」そう祈った。

地震が起きた時、お父さんは会社にいた。すぐに避難の指示が出され、持ち物も最低限なまま車に乗り込む。家族への電話は全く通じなかった。連絡がついたのは近くまで戻ってきてからだった。お互いの無事を確認してほっとした。

しかし、避難所で配られるのはおにぎりやパンが1個、子ども達はお腹を空かせていた。家も崩壊の危険があり、水も出ない、物資も来ない、加えて原発の事故のニュース。「放射能はこっちの方までは来ないし大丈夫だよ。」と周りの人達は言ってくれたが、お母さんは地震酔いの頭痛と吐き気にも悩まされ、不安ばかり募った。"余震も収まらないし放射能も心配、食糧も少ない、子ども達を一体どうやって守ったらいいの?"ナナちゃん達は一時的に県外へ避難をすることにし、横浜の親戚の所へ向かった。

横浜に着いたとたん3号機の爆発が伝えられた。「これはもうダメかもしれない。収まらなければ10年20年は帰れないかもしれないぞ。」原発内部で働いた経験のあるお父さんが言った。もう福島には帰れない?呆然とした。同じ会社の人から「事故処理の仕事をしてきた。許容量限度を超えたので原発から出て来た。」と連絡が入る。お父さんも呼び出しがかかれば原発に行くことになるかもしれない。
間もなくお父さんに連絡が入る。火力発電所の方への出向指示だった。

お父さんとお母さんが先にいわきに戻る。家は地震後そのままの状態だ。お母さんは子ども達が帰ってきて怖がらないよう、壊れたものはすべて処分し、部屋をキレイに掃除し、何事もなかったように元通りに物を戻した。「もう大丈夫。」準備が整うと、お母さんはナナちゃん達を横浜に迎えに行った。

しかし、ナナちゃん達が戻ってからほんの数日後に、またもや大きな地震がいわきで起きた。

その日外は雨が降り雷が轟いていた。ナナちゃんは裸足のまま雨の中に駆け出して行った。「もう家には戻りたくない!恐い!」

怖がるナナちゃんを抱え、一家は避難所に行く事にした。いくつかの避難所をまわり事情を話し入れてもらった。

子ども達の間で"この日地震が来る"と噂が立つ度に、ナナちゃんに不安が起こる。雷や雨が降ると「家に帰りたくない。」と泣いた。なだめて家に戻っても、ナナちゃんは1人で夜中じゅうぽつーんと起き、眠れなくなった。小さい妹や弟がはしゃいで部屋が少しでも揺れると、ナナちゃんは泣き叫んだ。そしてまた家族で避難所に戻る。それを繰り返した。

お母さんは避難所にお医者さんが来るたびに相談した。「親が悪い。いつまで避難所にいるんだ。」と怒る先生もいれば、「無理矢理に連れて帰ると逆効果だから、少しずつ慣れさせて行く方がいい。」という先生もいた。様子を見るしか出来なかった。

また、別の不安もあった。放射能の子ども達への影響だ。見えない上にどういう状況なのかが分からない恐さ。

「遊ぶ時は土とか水とか触ったらダメ、水遊びはやめてねって言っても、子どもは次の日には遊んでたりする。小さい子どもは泥んことか水遊びもしたい、お花だって咲いてたら手に取りたいというのが普通だから、「花も取っちゃダメ」というのは、本当にかわいそうで。でも、子どもはこれからの人生があるし、後でこうしておけば良かったのにってならないように注意はしています。チェルノブイリの人々のその後のことも知りました。私たちはいいけれど、そういう状況に子ども達をさせたくはない。」

一方でナナちゃんは言う。「あんまり外に出ちゃだめーって言われたから、中でトランプとかゲームとかカルタを自分たちで作ってやったりしてる。でも、いわきは数値も低いから、放射能は恐くない。マスクも小学校は小さい子しかあんまりしてないし。花粉症でしてた子はいたけど、放射能でしてた子はいない。だって、気にしてたらダメだもん。」

お母さんは続けた。「いわきは数値が低いとはいっても通常値ではないんです。だから放射能はあるという意識でいます。子ども達の事を思うと安心な場所に移りたい気持ちはある。でも、差別されることを思うと福島からは出る気持ちになりません。いじめのニュースもあり、東京に行くのが恐くなりました。誰も悪くはない。でも行きたくはなくなりました。事故の前に戻ることはできないけれど、せめてちゃんと知ってほしい。もし市から福島の人だけで避難しろと言われたら喜んで行きます。個人でいくのは恐い。周りの目が恐い。」そう言って、お母さんは目に涙を浮かべた。

「子ども達には"あなたたちは何も悪くないんだからね"って伝えてあげたい。」

大人も子どもも不安を抱える状況の中で、避難所は人と人が集い、互いの気持ちを和らげる場にもなっていた。遊びながら子ども達も気が紛れ、ここにいる間は落ちついているように見えた。また、避難所の中で子ども達はボランティアや炊き出し、他の人の仕事の手伝いもするようになり、様々な人との共同生活の中で、人を思いやることや協力することの必要性を感じながら過ごすことを自然と覚えた。それぞれの中に、変化が起き始めていた。

しばらく続いた避難所生活の中、ナナちゃんに同級生のボーイフレンドが出来た。
ちいさな恋。少しずつ、恐さは強さへと変化していく。

そして、ナナちゃんが言った。「お家に帰れる。検査する人が来てお家は大丈夫って言ってたから、きっと大丈夫。」

五月の連休、一家は住宅へと戻っていった。