揺れを感じ、机の下に潜りこんだその直後だった。崩れ落ちた天井に美樹さんごとその机はすっぽりと、覆われたのだった。遮断された空間の外で、事務所の人々が次々と外へ避難をしていく足音が聞こえる。机を叩いたり助けを求め叫ぶ美樹さんの声は、余震と逃げる人々の喧噪に紛れて消された。そしてまもなく、福島第一原発の敷地内にある事務所は静まり返った。

「社員が1人いない!」事務所の人々が騒ぎだす。男性社員2人がヘルメットを被り、すぐさま揺れる建物へと走った。

名前を呼び耳を澄ます。声がした。天井パネルを一枚ずつどかし、その下にもぐるようにして声のする場所を探る。隙間から顔が見えた。「腕を出せ!」彼らは二人掛かりで美樹さんを引っ張り上げた。
「もう誰も来ないと思った」と、彼女は泣いた。

帰りの車の中のラジオで、震災情報を伝えるアナウンサーの声が流れていた。
「今、福島第一原発付近、富岡、四倉が津波が来ています」

* * * * 

同じ原発敷地内の会社に勤める父の庸平さんと弟の翔太君は講堂に集められた大勢の中にいた。講堂の外では、津波が車や配管を巻き込みながら畝っていた。

やがて、波が海へと戻っていき、庸平さんは帰宅、翔太君はその場に残った。

車はない。帰宅となった庸平さんは3時間半歩き通し、灯が消えた我が家へと辿り着き、玄関を開けた。真っ暗な家の中に妻の真理子さんがいた。電気・ガス・水道、ライフラインは全て止まっている。汗だくの衣服を脱ぎ、着替えると、カセットコンロで湯を湧かしてカップラーメン1コに注ぎ、2人で食べた。

強い余震が続き、暗闇のベッドの中、幾度も目を覚ます。そして、何度目かの浅い眠りは、大きな叫び声でその幕を閉じることとなる。

* * * * 

「早く積めー積めー!」
目を開けるとうっすらと、朝の光がカーテンの間から差していた。声は隣家の駐車場からのようだった。2人は身を起こし、窓をガラリと開け、下を覗いた。すると、車3台に毛布・アイスボックス・座布団などをギュウギュウと詰めこんでいた。

「何かあったの〜?」起きぬけのぼんやりした声で真理子さんが2階から呼びかける。
「無線聞いてないのか!?6時半に避難勧告が出た!すぐに避難しろって!役場が準備したバスが公民館に来ているが、もう人が行列していて乗れない!車を使ってとにかく遠くへ逃げろ!」荷物を運ぶ手を休めずに隣人が言った。

『今日のうちに戻れるだろう』そんな軽い気持ちだった。財布だけを持って車に乗り、近所に住む娘の美樹さんのところに向った。

ドアベルを鳴らすと、美樹さんがのんびりとパジャマのまま出て来た。
「なあにーお母さん」
「あなたも無線聞かなかったの?避難勧告だって!」
美樹さんの準備が整うのを待ち、2台車を連ねて出発した。

* * * * 

避難ルートである288号線への道は、横道の合流地点で大渋滞が起きていた。

「原発が爆発しました」ニュースは唐突に入った。
庸平さんの顔色が変わり、車内が凍り付く。
「もう、私たち、帰れないの?終わりなの?」
「もう帰れない。悪いけど、もう帰れない」唸るように庸平さんが答えた。

辿り着いた避難所は、人々で溢れ返っていた。彼らは車に戻り、毛布に包まった。
深夜、車の窓をコン、コン、と叩く音がする。外を見ると、自衛官が立っている。
「昨日、車の中で寝ていて凍死された方がいるので、車の中では寝ないで下さい」
案内された別の避難所の人々の傍らに、彼らは身を置かせてもらうことになった。ここもまた、多くの人々でごった返していた。

翌朝だった。避難所に物資が来ない。この場所は新規の避難所だった為、役所への避難所登録が遅れていたことが原因だった。空腹と闘っていた避難者同士に、不穏な空気が広がっていく。庸平さんたちが原発関連会社の家族と分かると、その空気は一家へも向けられるようになった。一家は避難所の人々のために、食器やトイレットペーパー、食材などの買い出しや、炊き出しを始めた。暖房の灯油が少なくなると買いに走り、放射性物質が入らないよう窓を目張りし、毎日のトイレ掃除など、黙々と働き続ける日々が続いた。

ある日、県外にある真理子さんの親戚宅から、家に避難してくるよう申し出があった。そのことを人々に伝えると「また爆発するって東電から連絡来たのか。ここも危ないのか」「奥さんたちだけ避難させてお前は残ればいいじゃないか」と中傷の声が飛んだ。彼らの声を聞いた庸平さんが言った。
「俺は1人でここに残る」とたん、美樹さんが泣き出す。
「お父さんが何でそこまでやんなきゃいけないの?何で?」
その時、1人の女性が声を発した。
「避難所で長期戦なんていずれにせよ出来ないんだよ。いつかみんな旅立つんだよ。いいから行きなさい。」

親戚の家へと着いた頃、庸平さんの携帯に会社から連絡が入り、庸平さんは一人福島へと戻ることとなった。段ボールに毛布、缶詰め、という過酷な環境で、原発の収束作業に当たることとなる。そして娘の美樹さんは、そのまま職を失った。

一方で原発に残っていた翔太君は、事故発生以降ずっと、喪失した電源のケーブル設置などの作業に当たっていたという。震災後彼が初めて家族と会えたのは、事故発生から51日後のことだった。

* * * * 

7月、初めての一時帰宅。暑い日だった。家の中は鼻を突く悪臭が充満していた。必要最低限のものだけを急いで掻き集め、息を止めて走り出る。それが、堪え難い臭いの中で出来る精一杯だった。これは、本当に、我が家なのだろうか?

「もし避難区域が解除になったとしても、子どもも孫も、もう帰って来ないでしょう。大人ばかりでは商業も栄えないし、生活も将来も描けない。はじめは喪失感がありましたが、変わり果てた家を目の当たりにし"帰りたい"という気持ちそのものが無くなりました。それよりは代替地の準備とか賠償金の方がずっといい。そうすれば、新たに土地を探したり、次へ進むことも出来る。娘や息子が来て安らぐ場所が、やっぱり欲しい。

失った町は住みやすく、子どもを育てやすい町だった。その豊かさは原発の恩恵でもあったので、今の状況に対して私たちは何も言えない。とはいえ何もかもが想像以上です。住み慣れた場所に帰れないという寂しさ、新しい土地にも馴染んでいかなくちゃいけない。仕事もなくした。人生も、変わってしまった。」

そして、庸平さんは今も現場で働いている。
「放射線を浴びながら決死の作業に挑んでいる同僚たちのこと、現在の生活が様々な人に支えられていること、原発の事故の影響で苦しんでいる人々のことを思い、少しでも同じ苦しみを感じ、感謝し、共に汗を流していたい」と彼は言った。