ph_photo_t026.jpgそれは午後のカフェだった。目の前でぐらついた大きな花瓶を咄嗟に両腕で押さえた。ギシギシと木造の建物が軋み、食器が割れる音や人々の悲鳴が店内に響き渡る。その喧噪の中で、高木さんは、たっぷんたっぷんと水音を立てる花瓶と一緒に揺れていた。地震後の日々の始まりだった。

少し揺れが収まるのを見計って駐車場へ走り出る。再び襲う大きな揺れ。歩道にいた下校中の子ども達をかき集めて広い駐車場の真ん中へと座らせた。携帯はもう通じない。車内のテレビを付けて状況の深刻さに驚く。急いでエンジンをかけ、自宅へ戻り軽く家の中を確認し、近くの実家へと向った。

実家の母、姉家族は全員無事。家も大丈夫なようだった。テレビではもうすぐ小名浜にも津波が到達するとのニュースが流れている。小名浜には87歳になる叔母が一人暮らしをしている。小名浜の叔母の安否を確認するため、高校生の甥っ子と共に車に乗り込んだ。体力的に頼りに出来る人材だった。渋滞する道路を越え、やっと小名浜が見えて来た時、いわき東警察署から先は通行止めという情報が入った。車を止め、叔母の家へと徒歩で向った。

すれ違う人に様子を聞きながら進み、叔母の家へと辿り着く。しかし叔母の姿が無い。一番近くの避難所である小名浜第二中学校へと足を向けたその矢先だった。下水の格子から水がぶわーっと溢れ出し、避難所への道が冠水していく。ふたりは近くの小名浜支所に駆け込み、津波の水があがって来ている事を知らせると、別の避難所へと向った。避難所では名簿はまだ無く、マイクを借りて叔母の名前を呼びかけた。いない。水が引くのを待って小名浜第二中学校を訪ねた。やはりいない。夜も更け、どうしたらいいか分からないまま、とにかく家に戻ることにした。


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「シャワー浴びて」
自宅に着いたとたん、待っていた彼女が言った。
「何言ってるんだこんな時に」と言いかけた言葉は「絶対水が止まるから」と遮断された。有無を言わさずシャワーを浴びた。

見ると洗濯機がフル回転し、部屋中に大量のカップ麺や水を貯めたビニール袋が並んでいた。車のガソリンも既に満タンにしてきたそうだ。

まもなく、水が止まった。

テレビでは岩手や宮城の津波の報道が流れていた。しかし、3月11日の時点では、福島の被害状況がどれくらいなのかは全く分からなかった。あれほど酷い状態だったと知ったのも、叔母の無事が分かったのも数日後のことである。

そして、給水場で原子力発電所が危ないかもしれないとの話が出始め、様々な憶測がツイッターなどで溢れ出し、極力家の外に出ないよう広報車での呼びかけがなされるようになり、ピリピリとした空気の高まりとともに、人々は徐々にパニック状態になっていった。

唐突に、彼女が「パンを作りましょう」と言った。
粉を出すと慣れた手つきで捏ね始め、やがてこんがりと焼けるパンのいい香りが、非常時の様相を見せる部屋を包み込んだ。
「焼きたてのパンはおいしいね」ふわりと気持ちがなごむのを感じた。


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10年程前、高木さんは、NHKのいわき支局での仕事で原発の取材に同行した経験を持つ。原子力発電所内に防護服を着て入ったこともある。プルサーマル実施への反対を掲げる住民と行政側の動きも追った。この頃既に、第一原発では老朽化も問題視されていた。設計上難しいとされていたパーツの交換により40年を過ぎた炉の継続使用が決まり「そこまでして老朽化した炉を維持するのか?」と疑問を持った。

同じ頃、東海村の臨界事故が起きる。発生したその日にいわき市から東海村に取材に向った。民放各社の人たちはJCO目前での収録をしていたが、NHKの場合は原発事故時の安全対策規定があり、近づける距離が決まっていた。それでも、多少の被爆は覚悟した。

「原発の事故は起こるべくして起こったと思う。それがたまたま、近くで起こったっていうだけの話です。幸いチェルノブイリみたいな爆発ではなくてよかった。その部分では、日本って技術高いのかもと思いましたが、結果的にチェルノブイリと同じレベルの事故になっちゃいましたね。

爆発したって聞いても、何ででしょうね、やけに冷静であんまり慌てなかったんですよ。今考えると、諦めていたのかもしれないです。

あの時は、東電なり政府なりがまだ大丈夫ですよって言っている以上は、そのオフィシャルコメントは一応信じるというスタンスでいました。もちろん『これでもしも嘘言っていたらただじゃおかねーぞ』とも思ってましたけどね。その情報を基に放射線の危険性なども調べて、みんなもう少し落ち着いて考えた方がいいのでは?と、CTスキャンだと6ミリシーベルトといった情報を目安として伝えたりもしましたが、後から出てきた情報ことを考えると伝えるのは正解じゃなかったのかもしれないですね。実はメルトダウンしていましたし。情報の後出しには、このやろうって思いましたよ。ちゃんと冷静に対応してたのに」


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数日後、タバコの買い置きが無くなり、タバコを探しに出掛けた。

街に人がいない。量販店もコンビニもことごとく閉まり、やっとの思いで見つけたのは、街角で老夫婦が営んでいた小さなタバコ屋さんだった。『唯一買い物が出来る機能を提供しているのがお年寄りの人がやっている個人商店だけ』という現実に、怒りと悲しさと憤りが入り混じったような思いが込み上げ、胸が詰まった。

「もうここは、本当の過疎の街になっちゃったんだな」

その日を境に、高木さんは動き始めた。残された人、生活弱者、そういう人たちをサポートすべき元気な人が、いわきの街から離れてしまっている。支援する側のマンパワーの不足を、何とかしなければならない。老人介護施設への水や紙おむつの調達、必要な場所への食料調達の手伝いなど、避難所や友人と情報交換をしながら出来る事を始めた。同時に、必要な支援を得るためには被災地の状況を具体的に伝えることが大事だと感じ、自分が見たことをツイッター上に書き綴ることを決めた。

「人と人の繋がりがなければ、みんな生きていけないんだなということが凄く分かりましたね。それに、こういうきっかけがあって話してみたらあぁ結構共感できる部分をお互いに持っていたんだなって気づくこともあったし、その逆もある。表面的なところが一枚取れたような感じがあって、より一層、踏み込んだ形で会話が出来たように思います」

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やがて街の機能が回復し始め、人々の生活が戻り始めた。

「仕事は、広告がらみの仕事なので、回復の順番としては一番最後。それまでやっていけるのかっていう不安は正直あります。ただ、震災前より人口が増えているので、経済は思いのほか回るのではないかという希望は持っています。

飲み屋さんも、一時期つぶれちゃうのかなって思ってましたけど、意外と活気がある。始めそれはちょっとびっくりしましたね。悲観的に考えていたけれど、ちょっと希望は持てるのかなと。何とかなるって言いながらも、半分諦めていたんです。ただ、自分も含めて鼓舞したいし、前向きに考えられるようにしたいなって思いがあるので、前向き発言連発でしたけどね。

いわき市内に相双地区から来ている方も大勢いますし、今住めないエリアの人が、いつ、どう戻れるのかは気になります。除染の技術も進歩しているんでしょうから、実際の半減期を待つよりは短い期間で数値は減るとは思いますけど、何年かかるんだろう?

あとは、子ども達のこと。政府を挙げて学童疎開させるくらいの大鉈振るってほしいとは思いますね。国の見解となれば、それぞれの家庭の事情は関係なく避難することが出来ますし、後々何かあったら悔やんでも悔やみきれない部分なので、そこだけは、最悪を想定して対処する姿勢を見せてほしいです。

今はガイガーカウンターを持っていて、数値が見えるようになったので、それが急激に上がったりしない限りは、ひとまずはここで暮らしていくつもりです。ただ仮に結婚したとして、子供をここで作るかってなったときに、今の状況だけで考えるとそれはちょっと迷います。でも、放射線の数値を見ながら、できるだけ普通に、地震前の状態に近いような生き方ができることを目指したいとは思っています。

震災後、ボランティアを通して人脈も広がり、今後の自分の可能性やここでの仕事の面白みは間違いなく増しました。仕事の1つでもあるローカルメディアのハイマガジンも、休刊中に「ないとさみしい」って言われることもあって、自信になりました。今度リニューアル版で再開します。地元の細かい情報をたくさん扱っているので、みんなに大事にされるようなものになってくれたらいいなと思います」