彼の担任するクラスに、一人の女の子がやってきた。

3月11日、女の子の目の前で、自分の家が大きな波にさらわれてしまった。
家を失った彼女は、避難所から祖母の家に移り住むことになり、この学校への転入が決まったのだった。

「彼女とどういうことを話したらいいんだろう?」
言葉を選び、学校の設備や決まりの説明をしながら「今までの学校ではどうしてた?」と聞いてみる。返事も反応も無い。

振り向くと、女の子は青い顔をしていた。体がこわばっているのが見て取れた。

朝、緊張をほぐす体操をクラス全員ですることにした。ストレッチや腹式呼吸、音楽に合わせてのつま先歩きやかかと歩き。それから授業を始める。しかし、彼女はにこりともせず、誰とも目を合わせようともしなかった。

女の子は放送係をすることになった。彼はある日「好きなCD流してもいいよ」と彼女に話を持ちかけた。その言葉に、彼女の表情が和らいだ。翌日から、嵐やAKB48が朝の教室に流れるようになった。女の子の顔に、少しずつ、笑顔が灯るようになった。

そして1ヶ月程経った頃だろうか。女の子は地震の時の話を、ぽつり、ぽつり、と始めたのだった。

津波のこと、避難所のこと、仕事の関係で全員バラバラに住むことになった家族のこと、会津や新潟に住んでいる友人のこと。徐々にいろんなこと話すようになり、笑い、活発な一面も見せ始めた。

授業参観日が来ると、お父さんお母さんだけでなく、おじいちゃん、おばあちゃん、遠くの県に住んでいるお兄さんまで彼女の姿を見にやってきた。『家族の絆が強いからこの子は大丈夫だ』そう思えた。

「今は大変だけど、自分が故郷に帰れることを信じて今は頑張りたい。」
授業の中で"自分に向けての手紙"を書いた時、女の子が記したその言葉に、涙が止まらなかった。


地震や津波の被害に加えての原発事故により、学校の業務も大きく変わった。

毎朝のガイガーカウンターでの放射線量数値の計測。外での子ども達の活動を数値を調べながら決めていく。線量の高いところには行かないように子ども達に注意を促した。

津波被害の地域から転入した女の子を始め、震災後の子ども達の心と体のケアをスクールカウンセラーの先生も交えながら模索し、まめに家庭訪問をして家族や子ども達の様子を確認し、話を聴いた。まもなく給食が始まると、選択制になった給食も費用の事務処理仕事にも毎日追われるようになった。

すべてが初めてで、分からないことばかりの毎日。「先が見えない。子ども達にどうしてあげたらいいか分からない」それは教師にとってもストレスだった。5月の半ばを過ぎた頃には体と精神の疲れが表出し、熱が下がらない体を抱えて、薬を飲みながら仕事をしていた。

「私たち教員は、専門的な知識を持っている訳でもなく、教員によっても価値判断の基準が違います。心の底では不安で、自分の子どもと一緒に避難したい先生だって沢山いると思いますよ。ただ、私たちの仕事は公の人のために働く仕事なんだと、再認識しています。

今回起こったことで、子ども達の未来、福島県の未来を考えると、人の流出は痛いです。再生するのは人の力です。復興していくためには優秀な人材が必要です。また、子ども達が将来差別を受けないよう、健康調査をするならば根拠をしっかりと明示するなど配慮してもらいたいですね。影響があるかないかも、現時点では本当に分からない。

震災や原発事故があって思うのは、情報そのものが交錯・混沌としている状況でも、生きて行くためには自分で判断して選択しなければならないということです。そして私たちが育てているのは、子ども達の生きる力です。何を選択するかも生きる力です。生きる力を育てるには、どれを信じてどれを選択していくかの判断力を鍛えること、しっかりした判断をするために勉強することが大事だということです。

そして、選択したことに自分で責任を持つこと。

例えば『内部被爆をした。じゃああなたはどうするの?どうしたいの?』と導き『選択した事が、正しいか正しくないかは、分からない。正しいと思った事が、ある時どこかでどんでん返しになるかもしれない。そういうことが、この世の中にはある。それを理解した上で、自分でどうしたいか決める力を持ちなさい』ということを教えていく。

『原発事故が起きたからといって、簡単には住む場所も仕事も変えられない。また地震があるかもしれないし、津波が来るかもしれないし、放射能の影響があるかもしれない土地であなたは生きている。じゃあこれからあなたはどう生きていく?』ということを考えさせていく。

生きて行く為にどうするか、を学んでいくしかないんです。

子どもも、大人も」