ph_photo_t019.jpg夫と保育園を営みながら子ども3人を育てているゆきえさんは、この日、仕事を夫に任せて東京へ出かけた。久しぶりの自分の時間。講義を聴きに行く予定だった。

午前中にいわきを発ち、昼過ぎに会場のある大井町駅に着いた。そして遅めの昼食をとり終えた直後、建物が揺れ始めた。「あ、地震だ」すぐ収まるだろうと思ったその揺れは、尋常ではない揺れに変わる。店内の人々が次々と外に飛び出していき、ゆきえさんも外へと走り出た。駅前はすでに人で溢れ、パニック状態だった。何かに掴まらないと立っていられない。状況を知りたいとワンセグを繋ぐと、映っていたのは東北を襲った津波と地震の映像だった。

『家族の無事を確かめなければ』不安が駆け巡り、体が震えた。携帯は回線が混み合ったまま通話もメールも通じる気配は無い。公衆電話は大行列。どうしようかとを眺めると、カード式の公衆電話がガラガラなことに気がついた。すぐにキヨスクに向かう。最後の1枚のテレフォンカードを何とか買うことが出来た。それを手に電話に走る。手が震えてうまく数字を打てない。3回、4回と自宅の番号を打ち間違え、やっと打てた!と思った時、受話器から流れて来たのは不通の音だった。

時計を見るともう4時を過ぎていた。突如メールの着信音が鳴った。「無事です」のタイトルのみの空白メール、夫からだった。『家族が生きていた!』ホッと胸を撫で下ろす。『私の無事も知らせなくては』ゆきえさんは携帯が電池切れになるのを防ぐためドコモショップへ入った。充電器の行列に並んで順番を待ちながらふと見ると、ノートパソコンがあるではないか。
「ちょっとお借りしていいですか?」
列から離れて店のパソコンを借り、ようやく家族に無事を知らせるメールを打った。

電車は止まったまま、ついに大井町駅のシャッターが閉まった。もう、いわきに帰ることは出来ない。ゆきえさんは駅前のヨーカ堂で食べ物を少し買い、当座のお金をおろすためATMに向かった。しかし、使っている銀行はオンライン停止。手持ちは1万円未満。親戚や知人を頼ろうにも、携帯も通じず、地図も無い。ホテルはどこも満室であろう。夕方の暗闇が色を増し、溢れる人の中でゆきえさんは途方に暮れた。なすすべもなくホテルを訪ね歩きはじめた。

すると幸いにも、ロビーを開放してくれているホテルが見つかり、さらに幸運なことに深夜1時を過ぎた頃、ロビーで休んでいたゆきえさんにホテルマンから声が掛かった。
「空き室が出ました」
そして束の間、ベッドに体を横たえて眠ることが出来たのだった。

早朝に動き始めた電車の始発で出発したゆきえさんは、いわき行きの電車も高速バスも、運休再開の目処が立っていないことを知った。ひとまず、連絡の取れた和光市の友人宅に身を寄せることにした。

まるで何もなかったかのような日常の風景が広がる和光市。

友人宅からも自宅への電話は通じず、緊急ダイヤルや緊急伝言板の番号も通じなかった。(その時点ではいわき市は被災地扱いになっておらず、サービス対象外だった。)

『どうにかしていわきへ帰りたい』家族の大変さを思い気持ちばかり募る。車やバイクという手段も、ガソリンパニックや地震による道路の通行止めの情報を見ると使えそうにもなかった。

その時、ゆきえさんの脳裏に、大学時代に自転車部で120kmの長距離ツーリングをした時の経験が蘇った。『こういう時の自転車だ』

友人の反対を押し切り、電車に乗れる折りたたみ式の夜でも目立つピンクの20インチ3段変速自転車をカードで購入。そして友人にリュックとウィンドブレイカーと現金3万円とを借り、スパッツをユニクロで選んだ。

買い物の途中で夫から電話が入った。地震以降初めて、夫の声を聞いた。
「常磐線は1ヶ月以上動かないようだから、しばらく東京の親戚か友人のところにいて。こっちは大丈夫だから」
ゆきえさんは夫に自転車で帰ることは告げなかった。危険だからと反対されるだろうと思い、彼女は内緒で計画を進めた。

インターネットを借りて、余震による津波の心配のない内陸のルートを探る。体力を計算し2日間に距離を分け、1日目は水戸の友人宅に泊めてもらうことにした。

13日の朝に和光市を出発。電車が動いている取手駅まで自転車を担いで運び、ペダルに足を乗せた。

国道を北上し、渋滞している車の横を走る。折り畳み自転車は時速は10~15km程、信号では止まり、橋に差し掛かると自転車は迂回路になる。乗り始めてすぐおしりが擦れ、痛みが走った。予想以上に道のりが遠く感じられた。しかも道行き何があるか分からない。お店に寄る時は"ここまでは生きていた"という足跡をつけておくため店員と話すことにした。

たまに見かける人は皆、寒空の下、靴だけを履き替えた不自然な軽装で自宅へ向かって歩いていた。

14日、水戸から出発しいわきを目指す。いわきの物資不足のニュースを聞いていたゆきえさんは、途中のスーパーで缶詰を大量に買って自転車の後部に括りつけ、ひたすらペダルを漕ぎつづけた。

高萩を過ぎたあたりで転車部時代の仲間からの電話が入った。
「今原発が爆発したんだよ!ほんとに外走ってるの?」
「爆発してもすぐに放射性物質が飛んでくるわけじゃないから、今日はとにかく走る」友人にそう伝え、再び自転車を漕ぐ。

夫からの電話が鳴った。和光市以来2回目の会話だった。
「今どこにいるの?」「高萩」
しばらくの沈黙のあとで、混乱を含んだ声が届く。「え!?高萩まで電車動いてたんだっけ!?」「動いてないよ、自転車だよー」
車で迎えにくるという夫を「ガソリンが勿体ないし、車で移動してる時に何かあったら困るから家にいて」と説得し、あと一息になった道のりを急いだ。

そして1時間後、我が家が見えた。『家が建ってる!』それだけで嬉しかった。

泣きながら飛びついてきた上の2人の子どもと抱きしめ合う。末の子は"お母さんが帰ってきたのがまだ信じられない"といった表情で、物陰からゆきえさんを見ていた。近寄っていき、ぎゅっと抱きしめた。

家族に話を聞き、震災当日からの写真を見せてもらった。保育園の仕事、義母と分担しての子ども達の世話、日々の水汲み、震災情報の確認...。あの日から、夫はほとんど寝ていなかった。

「家族と一緒にいることが、当たり前なことじゃないと分かりました。

家族が死んだかもしれないって、私は自分のやりたいことのために子どもを犠牲にしたかもしれないって、本当に絶望でした。これが仕事の出張だったら『仕事だからしょうがない』って思えたかもしれません。でも私は、仕事をわざわざ休んで、自分の勉強のための講義を受けに東京に行っていたんです。なんで今日来てしまったんだろう?なんでこのタイミングで来てしまったのだろう?って。

自転車に乗って肉体的な苦労はしたかもしれませんが、精神的な苦労は家族のした苦労には全然及びません」