ph_photo_t018.jpg地震が起きた時、史子さんは福島市駅前のこむこむ(教育文化複合施設)で1才になる息子の颯介君を遊ばせていた。公務員の夫の勉さんから仕事で帰れないと連絡が入る。揺れが収まらない。史子さんは合流した友人と彼女の実家に泊まらせてもらうことにした。

携帯の電源も切れ、その日、情報は何も入らなかった。続く余震に緊張しながらも話し笑って過ごす地震の日の夜。史子さんは「ここが一番揺れたんだろう」と思いながら、友人のご両親が用意してくれた暖かい部屋と布団に感謝し、息子と共に眠りについた。

震災の大きさを知ったのは翌朝家にもどってからだった。沿岸部の津波。原発の事故。血の気が引いていく。
「実家のあるいわき市が大変な事になっている!大丈夫なの?両親は?避難させなくていいの?とにかく早く安全なところに両親や親戚を移さなければ」
続く余震も、もうどうでもよくなった。いわき市のことが心配で夜も眠れない。24時間ラジオ福島を聞き続けた。災害情報と共に「不安はあるけどみんながんばろう」と励ましの言葉がラジオから投げかけられる。それで少しだけ、気持ちが楽になった。

情報をネットで見ていた勉さんが言った。
「福島市も安全かどうか分からない。子どもにとって不安だと思うことは出来るだけやめておこう。窓とカーテンを閉めて出来るだけ家の中にいた方がいい」
勉さんは、週明けから避難所での仕事や災害対応に追われる日々に入った。

家の中で息子と2人。窓から外を覗くと、向かいの棟の人が普通にベランダに洗濯物を干している。雨の日も、子ども達がバケツを持って断水のための水汲みに並んでいるのが見えた。『さほど心配することもなさそうだ。何と言ってもここは原発からは60kmも離れている。まさかこっちまでは。とにかく今は35km地点にいる両親を避難させることが先決だ。』

いわき市の両親は、親戚や楢葉の親戚と総勢15人でいわき市好間にある祖母の家の小さな部屋で雑魚寝の生活に入っていた。犬と猫も一緒だった。心配したいとこが7人乗りの車に乗れるだけ避難させようと祖母の家に車で乗り付け、史子さんもまた、郡山にある夫の実家に避難の受け入れをお願いし、両親の避難が決まった。しかし、親戚の一家族と祖母はそのままいわき市に残ることになった。

「今になればそれでも大丈夫だったと分かりますが、その時はどうなるのか何も分からない状態でした。怖かった。私だったら何があっても逃げてたと思います。それでも残るって決断した親戚は「おばあちゃんを置いて行けないから残った」と。私は残った人の事を考えると、あの時のことを考えると、本当に辛い」

3月15日、史子さんは両親に会うため、家族で郡山を目指した。

その日の夕方、福島市の放射線量が20μSv/時を超えているとの情報が入る。郡山市は福島市に比べればだいぶ低い値を示している。史子さんは福島市に戻らずしばらく郡山に留まる事を決め、勉さんだけは仕事で福島市へと戻ることになった。

でもそれだけでは終わらなかった。3月24日の夜、テレビを見ると郡山市の放射線量が急上昇しているではないか。『あれ?高い?』史子さんはネットを使って調べ始めた。各市町村でまちまちだった観測ポイントが地上1mに統一されることになったのだった。郡山市ではこれまでずっと建物の3階で測っていたのだ。『大丈夫な数値じゃない!』史子さんはすぐに勉さんに電話をした。

しかし、返事は「長崎県からスクリーニングをしに派遣されて来ている人が、マイクロシーベルトのレベルで心配することないって言ってたから大丈夫だよ」という言葉だった。危機意識が高かった勉さんの感覚は既に変化し、さらに、日々の過重労働で話をする気力も無くし、大丈夫だと自分に言い聞かせているようにも感じた。結局、史子さんの「郡山から県外へ避難したい」という気持ちは届かなかった。

学校のグラウンドで部活している高校生たち、外で普通になわとびをしている子どもたち。スーパーに行ってもマスクをしてる子どもはほとんどいない。夫だけでなく、危機感を持っている人が少ない中で、史子さんは出来る限り息子と家の中にこもり、家の中の水拭きをし、外に出る時は息子を腕の中に抱いて頭からバスタオルを被り、車まで走った。

「周りからは浮いて見えるんじゃないかって思いました。でも確証がないし分からないことだから、少しでも子どもを守りたいって思ったんです。義理のお母さんに「私やり過ぎなんですけど、気になるんです」と気持ちを打ち明けると「思うことは間違いじゃないからやっておきなさい」と言ってくれたのが助かりました。理解されてるってだけでも気持ち的に安らげました。「何やってんの?やりすぎだよ!」って言われてしまったら、自分1人だけ空回りしてるみたいで居場所がなくなっちゃうから」

調べれば調べる程、郡山市にいる事への不安は高まっていった。史子さんは再度、避難したいとの思いを夫に伝えることにした。
「そこまですることないよ。福島市だって、飯館村の人たちの避難先になるくらいなんだよ?郡山はその福島市よりも線量が低いしそんなに心配することない。郡山まで避難したんだから避難はもういいだろう?」と勉さん。対して、気持ちが焦って冷静に話せない史子さん。放射能への感覚が異なってしまった二人は、避難について話す度に喧嘩を繰り返すようになった。

ある日、史子さんは勉さんにメールをした。
「子どもを守りたいって気持ちは一緒。そこはちゃんと共有していきたい」
「俺もそうなんだ、気持ちは一緒なんだ、でも今はいっぱいいっぱいなんだ」
「この状態では颯介が心配。だから避難出来るときは避難したい」

ゆっくり、ゆっくりと、夫婦はお互いの気持ちを確認していった。

4月、大きな余震が起き、今まで表に出ていなかった情報も次々と浮上し始めると、勉さんが言った。
「避難出来るなら、してほしい」
史子さんと颯介くんは群馬の友人宅へと避難を開始した。4月14日のことだった。

郡山市から新幹線に乗り、栃木を過ぎ群馬へ。安堵感が全身に広がる。「ああ、とりあえず、一回ちょっと抜け出せた」

窓をガラッと開けて掃除機かける。日常の些細なことが何のストレス無く出来るのがこれ程嬉しいとは。
群馬の友人は「いつまでもいていいよ」と快く迎えてくれた。
「迷惑をかけていると思いましたし、図々しいとは分かっていても、今回は子どもの事を考えて『出来るだけ不安じゃない場所にいる』ということが私にとっては大事でした。」
その後、友人や親戚宅を転々としながら、数ヶ月の間、県外で過ごすことになった。

時間とともに徐々に気持ちも落ち着き始め、この先どうしよう?と思い始めたとき、いわきの友人からの声が届く。
「食べ物や外出など気をつけているけれど、割と平常に過ごしてるよ」

そして7月半ば、いわき市の実家に史子さんと颯介君はやってきた。ここなら勉さんが週末に会いに来ることもできる。
震災直後のあの時期、必死になって親や親戚を避難させようとしたいわき市に逆に避難して来ることになるとは。「皮肉なものですね」史子さんが呟く。

「福島市と郡山市に一ヶ月いて、あまり外に出なかったとはいえ、どれだけ影響を受けているのかと考えると今でも不安です。そういったストレスで体が悪くなるのは避けたいのでなるべく結びつけないようにはしていますが、私もたまに下痢をしたり痣が出来たり、この子もすぐ熱を出したり、福島市の友人から「子どもが鼻血を出した」という話を聞いたり、夫が「なんか体調悪いんだよね」って言うのも、何も無ければ夏バテじゃない?って言えるんですけど、もしかしたらって思っちゃって。

今だけの事じゃない。この子たちは頭の片隅にそのことを置きながら成長していくわけです。私たちはそんな事を考えずに森や川で遊んでいたし、子ども達はそういう場所で遊ぶのが好きなはずなのに遊べない。体の不安をずっと抱えながら生活していくことを考えると、やはり哀しいです。

福島市で生活をしている友人にも避難してと言いたい気持ちはあります。普通に暮らしている中でも心の内は不安がつきまとってるはずだと思うので、出来る事なら、みんなうまく安全な場所に行けたらいいと思います。でもそう出来ない理由を各々持っているし、その人達に「避難して下さい」って言うことがその人達を追いつめてしまう。「危険だ」って言うことがその人達を傷付けてしまう。だから、言えません。

学校や幼稚園に楽しそうに子ども達が通ってるのを見ていると決断出来ないって人もいます。避難しても友達に会いたいって子どもが泣いて戻って来たという人もいます。そういった気持ちの問題もありますよね。放射能って言っても目に見えないし、何なのか子どもにはよく分からない。外で遊びたいけど遊んじゃ駄目、友達とも離ればなれ。避難先で子どもが笑わなくなったって話しも聞きますし、避難したからいいってものでもないんですよね。

福島市に1人残って働く夫も、口では「俺は大丈夫だ」って言ってますけど、多分無理はしてる。私もふと、何でこんな事になってるんだろうって思う時もあります。好きで離れてるわけじゃないし。でも子どもの事を考えると、福島市を離れている方が、福島で一緒にいるよりは気持ち的には楽なんです。

夫は今「これをどうにか生かして福島をいい方向に変えて行きたい」と使命感みたいなものを感じて仕事をしているので、放射能の影響は気になるけれど、本人が前向きに頑張っているのを応援しています。夫も子どもの事をストレートに考えて「頼むぞ」って言ってくれるので助かってますね。もともと子どもを大事にする人ですが、私と同じ気持ちで考えてくれるように変わってもきました。もう大丈夫だろうってなるとズレて来ちゃいますからね。相手様に迷惑かけるな、お世話になってる相手の事は考えなさいと言いつつも、私の選択と行動に理解を示してくれているのは有り難いです。夫も仕事に専念出来ているので、離れてても辛いばかりではないです。

今は、やっと福島県内に戻って、週末に会う生活のリズムが出来てきて、ちょっと安定してきたところです。「この先どうするの?次どうするの?」って言われても、ハッキリこうしたらいいって答えは出せない感じですね。前みたいに一緒に3人で暮らすために、仙台にアパートを借りようかっていう話もあるんですけど、今はいわきに少し安心出来る実家があるから、急ぎでしなきゃって気持ちがなかなか起きなくて。

だけど、本音は、普通に3人で安心して暮らしたいです。
最初の頃は夢中で動いていましたけれど、落ち着いてくると、好きでこうしてるわけじゃないんだよねって思いがやっぱり出て来ますね。

原発に対しては、もうここまでなっている状況で、私は反対です。
無くなると困る、経済がどうのこうの言う人もいますけど、原発が一カ所壊れただけでこれだけの影響が出ていて、これを受け入れることは私は出来ないです。ただ、これは多分広島や長崎の人達がずっと思ってきたことで、今まで自分は無関心で、こうなってみてやっと辛い気持ちでいた人の気持ちが分かったのかもしれません。

普通だったら福島市にいて、ママ友と会ったり、サークルに入ったり、旅行も行きたいし、平凡にやりたいって思ってたんですけど、今は服もどうでもよくなっちゃって、コンタクトもしなくなっちゃって眼鏡だし、プラスのものが無いというか。
毎日がそんな感じで、ただ過ぎて行くだけで。

でも、とりあえず今は子どもも笑って元気に過ごしているので、今は今の笑顔を絶やしたくないって思います」


史子さんはあの日以来、一度家の掃除に行ったっきり、福島市の自宅へは戻ってない。