生まれ育った場所が、存在したまま失われてしまった。
父も母も東電で働いている。
どこまでも抜け道の無い輪の中に入り込んだようだ。
3月11日からの一週間のことがおぼろげにしか思い出せない。
思い出そうとすると、吐き気が襲ってくる。
「軽く言うな。鵜呑みにするな。頼むからちゃんとした知識を得て自分で判断して話してくれ」

地震、原発、被曝、津波、という言葉が会話に出ると、体が凍り付き、そっとその場を離れた。

1人電車に乗りぼうっと外を眺めた。幼い頃の記憶がフラッシュバックし、涙が溢れてくるのを、必死で押さえた。
崩れ朽ちていく情景がよぎる。苦しい。リアルに、心臓が握り潰されるようだ。

「ずっと変わらないでいて」


彼は原発から15kmの場所で生まれ育った。
ある程度、原発がどういうものかは知っていた。小学校での発電所見学や原発の授業もあった。
両親や知人も多く働いている安心感があるものの、何かあったらまずい、一番に死ぬかもしれない、という意識も持っていた。

でもそれが、本当になるとは。

「想像とは全然違いました。こんなことになるのかぁって。生殺しですよ。想像してしまうじゃないですか。
だんだん朽ちて行って、20年30年経って戻っても、もう住める家ではないんですよ。
崩れていって全部無くなって、津波の被害受けた場所も片付かないまま朽ちていく。
復興とか言うけど、うち、復興しないんだよなあって。
今も被災中なんです。終わってないんです。

賠償しろって言いたくても、賠償先は父とか母のところからですよ。どうすりゃいいのって思っちゃう。
そんな中での住居探し、仕事探し、耐えられないですよ。
東電と行政からの一時金。仕事無くした人は、当面の失業保険。
子供抱えてたら1年も持たないですよね。家賃も自分だし、だから仕事探さないと。
親は今も第二原発へ仕事で通ってます。自分の住んでいた家の側を毎日通って。年だし、影響が出るのが数十年後ならいっそ住んでしまいたいって言いながらね。

意識は変わりました。勉強もリスクへの理解も足りなかった。
本当は、僕らが住民として原発を監視していなきゃいけなかった。本当にそれはいいのか?って常にもっと呼びかけるべきだったと思う。
とはいえ原発が無いとその地域が成り立たないということも理解しているから、原発反対でも推進でもないです。

人口が少ないけど合併しなくて済んだのも財源のお陰だったし、J-ヴィレッジもできた。高齢者のケアも充実していた。道路も人口が少ない割には整備されていたし、小学校もいい設備に改装されたりと恩恵も確かにありました。

でも、その分リスクを背負ってるんだよ、と思うし、誰のためにリスクを背負ってるんだよ?ってまず言いたい。それならお前のところに原発置けよって。

むしろ「ありがとう」って言ってあげたいですよね。
甘かったのを他人のせいにして東電責めないでくださいって。

電気代が上がるのをブーブー言ってる人にも、じゃああなたは、原発に反対したんですか?って。推進派の政党に票入れたんじゃないですか?って。
なんて浅はかな人達なんだろうって。いろんなものに慣れきって、借り物の知識で自分で判断しない上っ面だけ。
情報が溢れてるからだと思う。自分もそういう人間だった。

本当は政策とかにも目を向けながら、原発とは何ぞやというのを、関東の人もしっかり認識して、方向を選んでいかなきゃいけなかった。
身の回りのものが何で動いてるのかってことにも、鈍感になっていたと思う。

でも、もう僕らみたいな人たちは出しちゃ行けないと思う。
もう十分ですよ。リスクというには、あまりにも失うものが大きすぎる。

かといって安易に反対とは言いたくはない。
空白になる地域に対しても、代替のものをちゃんとそこに提供して、地域の中の経済に組み込むところまでするべきだし、本当に必要なエネルギーは何なのか、不必要なものはなかったのか、見極めて行く目を養っていくことも必要だと思う。
その地域に根ざしたものを探って行くのも一つ。エネルギーの面でも東京を含めて自立をしないといけないんじゃないかと。

だから僕自身も動こうと思います。
この人生のタイミングで起きたことは必然だと感じます。
自分の中に溜めて来たもの、知識や経験を軸に、もっとスピードとパワーを身に付けて準備をし、実行に移していこうと思っています。

僕の故郷が、帰った時にそのままでいてくれたら、一番幸せです。
そして、もっといい街に、仲間たちとしていけたら、いいですよね」