ph_014_01.jpg「俺たちはあのなかにいて、信じたくなかったんだよね。
爆発したどうのこうのあっても、認めたくなかった。
間違いであってほしい。」

いわきの魚屋「おのざき」の社長、小野崎幸雄さんが毎日のように奔走している。
震災で無事だったイカやさんまを使った完全屋内干しでの商品作り。各地の知り合いを通じて、いわきの人達のために安全な魚介類を掻き集めてきては店先に並べ、被災地支援のイベントに呼ばれると、車に商品を載せ、どこまでも走ってゆく。

3月11日の震災、市内にいくつかある店舗のうち沿岸部の店舗は津波で流され、地震被害のみの店舗もすべて断水し、水冷式の冷蔵庫が止まった。しかし、人々が続々と食べ物を求めて店にやってくる。何とか応えたい、と思った。
「幸い市場は内陸にあり無事だ。氷を貰ってくれば、数時間はもつだろう。」
平地区にある店舗の一つが営業出来る状態であることを確認し、従業員に連絡を取ると、15人くらいが来れると言ってくれた。翌日1日で地震の片付けを終え、市場から貰える氷で鮮度を維持できる時間だけ営業しようと決めた。

一方で、原発事故が日に日に深刻化していった。緊迫した空気が流れ、運搬業者も開く店も少なくなっていく状況下、数業者がトラックで品物を集めては毎日市場に卸してくれた。
小野崎さんは深夜2時には市場に行き、その日届く商品から、水なしで簡単に食べれるものや、焼くだけ、レンジで温めるだけのもの、缶詰などの保存がきくもの等を選び、店に運んだ。
ガソリンは従業員が手分けして並び、軽自動車を使って最低限の動きで済むように工夫した。それでも店のガソリンはギリギリだった。そんな状態が2週間程続いた。

市内では避難者が続出し、小野崎家でも家にいる子供達を逃がすために親戚や知り合いとのやりとりを重ねた。ガソリンや行き先、道路状況など、問題が多々浮上し、うまく行きそうでうまく行かない。
そんな中、18日に高速バスの運行が開始されるとの情報が入り、娘2人が東京へと避難することになった。息子は家に留まると言う。心配が大きかったが、息子の選択を尊重することにした。

「もしかしたら、娘達とはもう会えないかもしれない。俺は会社もあるし逃げるつもりもなかったけど、みんな逃げたかったんじゃないかな。避難するのも家族守るためだからいいし。残る人間はもう、覚悟をした人間か、あきらめた人間だったよね。」

娘達を乗せ去って行くバスを見ながら、小野崎さんは覚悟を決めた。
「なにがあろうと、俺は地元のために店をやろう。」
娘達や息子のことを思うと、涙が流れた。

毎日夕方に店を閉めると、「断水だから水の代わりにビール。」と、ビールを買って家路に着く。真っ暗な闇と化した住宅地は静けさに包まれ、自宅だけにぽつんと明かりが灯っていた。悪夢のようなニュースを見ながら、気がつくと2週間足らずでウィスキーの瓶が1本空いていた。

「いやあ~、おのざきさんが店開けてくれて助かったって。ありがとうって。それが励みだよね。その言葉だけだよね。地元の俺たちが、こんな時に店やんなくていつやんのって思いながらね。」小野崎さんは言う。

「2月までは、いわきって全国で一番住みやすい土地だったんだよ。それがこういう風になっちゃったからねえ。放射能のことにしても、こうなっちゃったからには受け入れて行く他ない。食べ物がなければ他から持ってくる他ない。
俺はもう50過ぎてるから基準値以下だったら食べてやんないと作った人に対してもかわいそうだもんね、って思ってる。若い人や子ども持ってる人なんかは違うと思うけど、俺はいいって思ってるよ。

でも、ここで生活していく人達を支えるためには、俺たちも安心なものしか出さないし、地元の人に安心して食べてもらえるものを選んできて、店に並べてる。

俺は本当にね、人間の力で抑えきれなくなったものはもうやるなって。こんなのがあちこちでボンボンボンってなったら、地球滅亡するよ。
これは神様の警告じゃないかと、神様が福島原発にちょっといたずらして、もうやめましょこういうことって言ってくれたのかなって。
ここが犠牲になって、もうやんなきゃいいんだよ。世界中やんなきゃいいんだよね。
こういうことは二度とあってほしくないね。」

以前、東京や千葉にいた小野崎さんは、遠方の仕事仲間も沢山いる。父の跡を継いで社長になり、いわきの魚を県外へと持って行くことも多くなっていた。小名浜の美味しいお魚、メヒカリ料理の飲食店への紹介、評判の高かったみりん干しや焼酎に合わせて調合した特製あんこうキムチ鍋、老舗の奥の松酒造の糟と極上の魚で仕込んだ絶品粕漬け。卸先も増え、海外への輸出の話も進んでいた。
「おのざき」銘柄が順調な広がりを見せていた矢先の震災だった。

「仕入れは、知り合いの業者を通じて遠方のものを取り寄せるか、冷蔵庫に残っていた震災前のストックのものだけ。放射能のベクレル検査は俺たちがやるには費用が莫大にかかるから、仕入れ段階で「これだったら大丈夫」って言えるものしか扱わない。「おのざき」って名前もあるし、その信頼は守りたい。
かまぼことかの加工屋さんも、放射能の心配のない地域から原料を取り寄せて加工しているし、一夜干しもすべて屋内で作業して真空パックにしている。遠方の仕事仲間も助けてくれている。

そうやって安心安全な魚を頑張って提供していこうとやっと立ちなおってきたのに、福島のものはなかなか売れない。とにかくもう、風評被害にならないようにアピールしていくしかないって思ったの。」

小野崎さんは繋がりのある業者を集め、福島復興を掲げた『ふくしま海援隊』を立ち上げた。第一回目のイベントは紅晴美さん、第二回目はせんだみつおさんと、著名人の応援も加わり、理解者を増やしている。
またこの夏、小野崎さんを含むいわきの同志4人が「お魚マイスター」の資格を取得し、魚の素晴らしさを伝える『伝道師』ともなった。

「昔から、尊敬する龍馬さんの本をことあるごとに読み返してきた。「今一度日本を洗濯致し候」という名言を残した坂本龍馬。真っすぐに生きたその意思を掲げ、立ち上がりたい。日本人は何千年も前から魚を食べて来た。明治以降の西洋文化の影響で増えた成人病対策としても魚を食べることが見直されている。魚を食べる文化を失わないためにも、安全な魚をどうにかして提供しつづけ、また立ち上がりたい。

自分で魚屋をやれるとしてあと20年。最後の一踏ん張りだなって思うし。それがめげる時もあるし。でもこの先どうなるかは誰にも分からないから、生きているうちにやれることをやろう、と。
今は遠くは見れない。今しか見れない。
だからこそ目の前のことを、今やれることを、一歩一歩やっていきたい。」

[ 海産物専門店おのざき http://www.onozaki.net/ ]