「おかあさん、卵が無い!卵買ってきてー!」
当時流行していたゆで卵ダイエットに年頃の女の子は夢中だった。他愛のない甘えを母に投げかける。しょうがないわねえ、と母は卵を買いに出かけた。

その数分後だった。母はバイクに轢かれた。

左半身不随。記憶を失い、もう以前の母はそこにはいなかった。『人格の変容』というものを彼女は初めて目にした。まるで別人となった母を、父はくる日もくる日も懸命に看病しつづけた。妹はまだ中学にあがったばかりだった。
「私が母親の代わりにならなきゃ」
彼女は高校に通いながら、家事を懸命にこなした。

その後、彼女は地元・神戸の女子短大へ進学し、母が以前勤めていた子供服のお店に就職した。その場所には、母と買い物をした楽しい記憶が詰まっていた。

いつしか、彼女の中に強い気持ちが芽生えていた。
「私が愛情を注がれて育ったように、子どもに愛情を注ぎたい」


* * *

[1995年1月17日5時46分 阪神淡路大震災発生]


突然、足下が爆発するように揺れ「うあーーーっ」と叫んで飛び起きた。窓から周りの家が崩れていくのが見えた。家族と犬の無事を確認する。外に出ると、目の前の高架が片方だけ崩れ落ち、周りの家はほぼ全壊していた。食器が散乱する家の中を家族全員で片付け、食料を確保するために外に出ると、そこにはまるで戦争映画のような世界が広がっていた。その夜、家族4人は同じ部屋に川の字に寝そべり、いつでも避難出来るよう靴を履いて眠った。ライフラインがすべて途絶えた家の中で、ラジオの音だけが流れ続けていた。

翌日、神戸の山側にある祖母の家に避難することになった。そこで初めてテレビを見て、自分達がどういう状況に置かれているのかを知った。燃えさかる長田の街並みや崩壊した阪神高速道路の映像に、言葉を無くした。
「とんでもないことになった」

変わり果ててしまった街へ、置いてきてしまった犬を探しに行った。瓦礫の中で子供服の販売も開始されることになった。犬が無事に生き延びていたことが分かったのは、震災後しばらくしてからだった。その再会はまるで救いのように思えた。ただただ夢中だった。暗くはなかった。生きる力にみなぎっていた。

一方で、1つの別離が訪れる。父が家から出て行ったのだった。母の看病に明け暮れた父を責める気持ちにはなれなかった。母にべた惚れで、子煩悩だった父に、しょっちゅう手紙をねだられたのを覚えている。ことあるごとに彼女は大好きな父にラブレターを書いた。体の奥底に楔のように打ち込まれた悲しみが唸るその傍らで、こよなく愛してくれた両親の愛情の記憶が、確かなぬくもりとなって彼女を支えていた。

少しずつ新しい姿を顕わしてゆく神戸の町。"日常"と呼ばれるものが戻り始め、遊びや笑いが戻り、恋愛をし、やがて数年が経ち、彼女は結婚をする相手と巡り会った。

* * *

やっと安息できる。そう思ったとたん、再び闇が幕を降ろす。"子どもに恵まれないかもしれない" という現実。息をするのが苦しい。子どもの姿を見るだけでも辛い。何をしていても、涙が溢れた。

そんな時に、ヨガとの出会いがあった。

ph_photo_t034_3.jpg"意識を体や心に向け、自分の中に安らぐ場所をみつけなさい。何かへの依存ではなく、人との比較ではなく、自分が落ち着ける本来の場所は常に自分の内側にある"ヨガの思想は、彼女の内側の闇にそっと寄り添い、立ち上がる力を内側から吹き込んでくれるように感じた。彼女はヨガに没頭し、気が付くと、インストラクターの資格をとるまでになっていた。

2010年、夫の転勤で福島県いわき市へと移住した彼女は、ヨガクラスを始めた。"ヨガを通じて、みんなの交流の場が作れたら"その想いに共鳴して1人、また1人と生徒が集まり始めた。

ph_photo_t034_2.jpgある日、クラスに来ていた子どもを持つ母親が言った。
「子どもと一緒に行けるところが無い」
その言葉に、封印していた想いが体中に解き放たれ、巡りはじめた。

"愛情を注ぐ対象を実子に限る必要なんて無い。来てくれる人たちも子どもたちも、私は大好き。お母さんと子どもが一緒に来れるヨガを、一緒に笑顔になれるような子どもヨガを、やってみよう!!"


* * *

[2011年3月11日14時46分 東日本大震災発生]


窓の外を、屋内退避のアナウンスを流しながらが白い車が走り去ってゆく。

彼女の元には何度も神戸の両親から「避難してこい」と電話がかかった。夫の仕事上、避難は出来ない。テレビとネットで情報を集め、水を汲みに行く。差し迫る緊迫感の中、彼女は徐々に精神的に追い込まれていった。
「早くここから出たい。なんだか怖い」
それは、24.72μ㏜/hという数値がいわきで計測された時期でもあった。

3月15日、夫の仕事場が会津に仮移動との業務命令が下り、山を越え会津へ。白い防護服を着た人たちが彼女たちを囲み、その体を放射線測定器で計測した。まるでゲートだ。そこを越えれば恐怖のない世界へと入れる見えない扉。ここからは、放射能に怯える必要はもう無いのだ。換気扇を回す夫にヒステリックに「換気扇止めて!!」と叫ぶ必要ももう無いのだ。ほっとして涙が流れる。ハンドクリームを塗ろうとして、女性らしいことをしている自分に驚く。彼女は、いったん一人で神戸の実家へと避難することに決めた。

神戸に着くと、次々に浮かんでくるのは、いわきのヨガクラスに来ていた人たちや子ども達の姿ばかりだった。外遊びが出来なくなった子ども達。福島での子育てに不安を抱えているお母さん達。安全であったはずの自然が危険という異常な状況。「子どもの方が被爆している。地面近くににて、いろんなものに触ったり興味を持ったりするから」という声も耳に入る。彼女は突発的に、京都の子ども向けヨガインストラクターを養成するヨガスタジオに入学し、子どもヨガの勉強を本格的に開始した。夫の職場のいわきに復帰後は、いわきと関西を往復しながらヨガの勉強を続けた。

いわきで久しぶりにクラスを開くと、子ども達の運動能力が驚く程低下していた。つまずきやすく、以前では考えられないところで転んでいる。首からガラスバッヂを下げた子どもたち。ずっとマスクしてる子もたくさんいた。その姿が切なく、心が痛んだ。誰しもが何かを選択し、誰しもがその選択に矛盾を抱え、悩んでいた。

「避難できならその方がいいと思うけれど、避難したくても仕事や家族があって出来ず、ここで出産して子育てしていく人もたくさんいる。今も第一原発に入って作業してる人もいるし、彼らがいるからこそ私たちが生活出来ている。ここに残る人たちも元気で楽しく過ごして欲しい。それにはヨガがきっと助けになる。ヨガなら屋内で出来る。免疫力を上げ、体力を付けることにも繋がる。そして私が苦しい時にヨガに助けられたように、自分の体や心に意識を向けて、落ち着ける本来の場所を見つけることの大切さを伝えてあげたい」

新しく始まったキッズヨガクラスに来た子どもたちの表情が、ヨガをするうちに輝いていく。ストレスに晒されているお母さん達も、喜ぶ子どもたちを見ると気持ちが和らいでるのが感じられた。楽しいと感じてもらえること、その喜ぶ姿を見るのが何より嬉しい。もちろん逆風はある。それでも根底にある子どもたちへ注ぐ愛情は変わらない。

「子どもたちが笑顔で元気に育っていきますように」

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突然、クラスに来た子どもが泣き出した。顔を覗き込みながら理由を聞くと、
「だって思うようにいかないんだもん」と泣きじゃくっている。
彼女は真剣な眼差しで言った。
「人生なんてね、思うようにいかないことだらけなんだよ!」
とたん、泣いていた子どもが爆笑した。
「そうだよね」
と言って、さも可笑しそうに笑っている。
「まだ君には分からないと思うんだけどな・・・」
そう呟きながら、彼女もまた一緒になって笑った。

いつでも何かが起こり続ける。
何度でも繰り返し、それはやって来る。
「何が来ようとも笑っていよう」と彼女は思う。

神戸の母は「一人の方が楽だわー」とあっけらかんとした優しさを見せる。
父は外に住みながらも、母のケアを続けている。

人も変わる。状況も変わる。
それでも、彼女の中の愛情の記憶は、決して消えることは無い。
心を暖め、生きる礎となっている。
大好きな人々や子どもたちに注ぐ愛情は、
彼女が今も送り続けている"ラブレター"なのかもしれない。

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( photo:鈴木 穣蔵 )