お盆になると、カンカンドンドンという鉦(かね)と太鼓の音色がどこからともなく聞こえてくる。
「ああ、今年は誰々の家のばあちゃんが亡くなったねえ」
そんな会話をしながら、空に響く音色とリズムに耳を傾け、故人を悼む。
新盆を迎える故人の魂を供養する踊り、いわき市の平地区を中心に伝わる伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」の音色である。

十数人の青年の一団が新盆の家々を巡り、腰から太鼓を下げた人を鉦を打つ人が囲むように庭に立ち、念仏を歌いながら踊る。親族は遺影とともに縁側に並び、踊りに見入る。そして踊りが終わると、青年たちにお礼やお酒などを振る舞い見送る。
故人を偲ぶと同時に、その踊りとリズムに漲る力は、人々の中からもエネルギーを引き出していく。

ph_photo_012.jpgいわき出身の音楽家ASA-CHANGが、その「じゃんがら」を踊ろうと、叩こうと、いわきに帰ってきている。一時期は壊れた家を地元の大工の棟梁と一緒に修繕して回りもしながら、夕方になると稽古のため自転車でじゃんがら団体の集会所に向かう。

「伝統芸能だから、一緒に稽古してカラダで覚えるものだと思い...」プロのパーカッショニストの彼は、あえて"まっさらな状態"で稽古に臨んだ。
独特の踊りと一体化した所作の流れの中で打たれる太鼓や鉦のリズム。一回通しただけで足がプルプルになる程、苦しくハードな踊り。それを1日に何十回も奉納を繰り返す様は、お盆中3日間連続のトライアスロンみたいなものでもある。
数百年の歴史を持つこの念仏踊りは予想を遥かに超えて厳しいものであり、30年もの音楽家としての経験がかえって邪魔になることも多々あったようだ。それでもASA-CHANGは参加することに意思を燃やした。

「じゃんがら念仏踊りは日本中どこにもない"いわきの誇り"だと思う。」とASA-CHANGは言う。

全身全霊で向かう彼の思いは『鎮魂』である。

「今年は本当にたくさんの人が津波で流されましたよね。いわきでも津波で数百人もの人が流されてしまいました。原発爆発の事すらも知らずに死んで行った人がたくさんいます。しかし多くの日本人が『津波=三陸』だけだと未だに思っている悲しい現実や、原発問題にマスキングされて、いわきで津波が起こったことがなかなか伝わりづらいんですね。
だから僕はいわきに帰って、復興の、その前に、放射能で怯える前に、鎮魂から始めようと思いました。

音楽家であり打楽器奏者ではあるけれど、僕個人の演奏や楽曲表現では、未曾有な災害には太刀打ち出来ないとも思います。一日だけ来盤して、"さあ!みんな頑張りましょうよ!!"って言って帰っていくことも僕にはさすがに出来ません。
いわきで生まれ育った者として、いわきに"同化"して、新しく亡くなられた方々を弔いたい。 いわきの人たちと共に、故人への供養の踊り「じゃんがら」で鎮魂をしたい。」

それがASA-CHANGが辿り着いたひとつの決意だった。

小さな愛娘のこと、我が家の財政を考えつつも、何度も何度もいわき~東京を往復し、音楽家大友良英氏達を中心にスタートした「プロジェクトFUKUSHIMA!」のメンバーでもある彼は、分派を嘆願し「プロジェクト FUKUSIMA! IWAKI!!」として、じゃんがら念仏踊りへの参加を通してFUKUSHIMAの想いを伝えるべく活動を開始している。

ASA-CHANGは、あの原発が建てられた頃いわきに生まれ育った。
当時、公共の建物はどんどん立派になり、電源施設関連団体から子ども達に"プレゼント"されるエンピツには当然のように『あんぜんなげんしりょく』と印字がされていた。

「原子力が怖いのは勿論知っていても、そこで平常心で過ごし、人間としての生活をしていけるようなマインドコントロールをされていた気がします。チェルノブイリの時も、ここの原発は大丈夫、壊れることなんてない!と思っていました。それこそが「マインドコントロール」ですよね。そこに住めるメンタリティを作り上げさせられたなぁ、と今になって思っています。
それに、常磐炭鉱も閉山していくし、莫大なお金も撒いてくれたしなって。東電にお世話になっている人もいるし、働いてる人たちの被爆のウワサ話しなんてザラですし。その子供たちにへの影響のこともですね。いわき市周辺の人たちはあまり言わないけれど、諸々を抱えて込んで私達は生きていたような気がします。
解けない知恵の輪の中で国家的な戦略に組み込まれ、地固めが出来て、原発が建つんだよ、ということですよね。こういうことが、我々にリアルに起きていました。」

恨みと悲しみと、あと半分あきらめ。
ここはそういう町なんだと、ASA-CHANGはいう。

「今日もほんっと放射能たっぷりの空気でぇタバコうめえなあ~~」「うちのばっぱ(お婆さん)、津波でやられちってぇ~」そうやってブラックジョークの含まれた"方言"で悲しみを払いのける。いわき弁にはそういうところがあるような気もします。
言葉も強いし、意思も強い。
いわきから離れたからこそ、フカンから見える言葉、気持ちなのかもしれないけれど、そういうブブンが復興に繋がるといいなとは思います。」


3月11日、ASA-CHANGはいわきで目覚めた。
近年になって実現してきた、いわきレッスンとワークショップを前日終えたところだった。何故か、小学校の社会科見学で行った原発の記念ハガキを持ち出し、午前中にいわきを発った。
東京代々木のレコーディングスタジオに着いてまもなく、あの地震が起きた。
奇しくも、プロジェクトFUKUSHIMAとして共に活動をすることになった大友良英氏のレコーディングだった。

スタジオは何度も何度も大きな余震を受け、テレビやラジオで流される津波や被害の知らせが伝えられた。しかし、音楽家たちは、演奏をやめなかった。
30曲近い劇中曲を録り終える夜半まで、誰一人として"中止です"とも"帰ります"とも言わず、演奏し続けた。311のあの日、ずっと鳴り響いている音楽があった。

そこで鳴っていた音楽は、空を越え、届いていたのかもしれないと思う。
遠くから鳴るじゃんがらの音色のように言葉にならない思いを乗せて響き渡り、そっと私たちの側を触れ、その衝撃を包み込むように鳴っていたのではないかと思う。

「誰が悪い訳でもなく、誘致した人、国家レベルの戦略をたてた人、建設した人たち、彼らもニンゲンです。
反対しているのもニンゲンです。ニンゲンが作り出したものの責任を今浴び、それに狼狽しているのもニンゲンです。
なんて浅はかな生き物なんだろうって思ってます。

ただ、もう一つ言えるのは、音楽を作ったのもニンゲンです。

醜くて、美しくて、嫌ですね。 」


ph_photo_012_2.jpg


ASA-CHANG:福島県いわき出身の音楽家。
美容室の息子として生まれ、19才でヘア・メイキャップアーティストを目指して上京。
80年代中~後半にかけて、Olive、anan、キューティー等、ファッション誌や、小泉今日子等の当時のカッティング・エッジなアイドル、タレントの仕事を数多く手掛けるも、東京スカパラダイスオーケストラのパーカッション兼バンド・マスターとしてデビュー。多大なる人気を博した。その後フリーランスになり、スカパラ在籍時から注目されていた特異なライブ・パフォーマンス&プレイで、ドラマー、パーカッショニストとして、独特のプレイスタイルや躍動感のある唯一無二のビート感で、その存在を知られるようになる。
数多くのアーティストからの信望を集める一方、ソロユニット「ASA-CHANG&巡礼」では独自の美しい音の世界を作り出し、海外でも絶大な評価を受ける。ポップとアバンギャルドを軽々と行き来する様々な活動は、多くの注目を集めている。作曲・アレンジもこなすプロデューサーとしても活躍している。(公式ページより抜粋)


[ プロジェクトFUKUSHIMA! IWAKI!! ]
オフィシャルウェブサイト:http://pj-fukushima-iwaki.tumblr.com/
twitter;http://twitter.com/#!/project_f_iwaki