ph_photo_t023.jpgラジオをつけると「大きな地震がありました、津波が来ます」と、アナウンスが流れた。

山内さんと同僚は、辿り着いた青森港のフェリー乗り場から急いで内陸方面へと戻り、駐車場にトラックを止めた。急いで携帯を取り出して家族の安否を確認し、ワンセグのテレビに繋いだ。入って来たのは、自分たちが住むいわき市を含む甚大な被害の情報だった。

山内さん達はいわき市にある水族館アクアマリンふくしまに勤めている。北海道へ魚を受け取りに行く道中での出来事だった。東北道は通行止め、新幹線も動く目処はない。「しばらくはここで足止めかもしれない」本州の北端に止まったトラックの中で、時間だけが過ぎていった。ちらつき始めた雪は、徐々に大雪へと変わっていった。

翌日だった。原発が爆発したとのニュースが飛び込む。

トラックの中で2人は顔を見合わせた。山内さんには身重の妻、そして同僚にも妻と子どもがいる。
「家族を避難させなければ。何が何でも戻ろう!」
日本海側のルートを探る。問題はガソリンだ。青森県内でもガソリンパニックが起き、ようやく少しだけ手に入れることが出来たのは秋田県。しかし、1台が給油できるのは20Lと制限されていた。福島に行けるだけの量では無い。山形県にいる同僚の親戚を頼り、さらにそのつてを頼り、無理を承知で何とかガソリンを掻き集めてもらった。途中で買い込んだ大量の物資や食料と、出会った人から贈られた支援物資で積み荷がいっぱいになったトラックを走らせ、物資不足も伝えられるいわき市を目指した。

13日の夜の帳が降りた頃、ようやく福島県境の看板が見えた。同時に目立ち始める地震の被害。土砂崩れ、道路のひび割れ、通行止め。まるで迷路だ。ヘッドライトで道の近くを照らしながらソロソロと進む。我が家が見えた時には、もう深夜になっていた。

そしてその翌日、更なる爆発が起こる。

* * * * * 

一方、地震の直後のアクアマリンふくしまでは、スタッフが来場者の避難誘導に奔走していた。建物や駐車場から来場者全員の避難が確認され、スタッフが被害状況を確認に回る。その時、津波警報が発令された。野外にある芝山に避難したスタッフ達は沖防波堤を越えてくる波とその沖合にさらに高い波がそびえるのを目にした。
「ここでは津波に飲まれる。建物の3階へ避難しよう」スタッフ達は、水族館の建物内へと走った。

3階へと登ったスタッフの目に飛び込んで来たのは、展望デッキのガラス越しに立ち上がった海の姿だった。2波、3波と高さを増し、津波は眼下に並んでいたスタッフ全員の車を飲み込み、押し流し、凄まじい力でありとあらゆるものを引き込み、波は去って行った。

そして、海が静まったかに見えた夜の8時頃だった。今迄で一番大きな津波が建物を襲った。轟音が響き、海水が建物内に浸入した。残っていたスタッフは帰宅を断念し、暗がりの中ラジオを聞きながら、夜が明けるのを待つことにした。

朝、太陽がその姿を現すとともに津波の被害の甚大さが浮き彫りになっていく。無惨な姿を晒す風景の中、スタッフはそれぞれの自宅へと歩きはじめた。スタッフに1人も犠牲者が出なかったことだけが、小さな勇気となって彼らの心を支えていた。

* * * * * 


爆発の日は自宅退避指示となり、翌朝アクアマリンへと戻った山内さんは、山積みの物資をスタッフに渡すと、水槽へと向った。停電で真っ暗闇の水槽の中を覗き込み、彼は言葉を失った。津波で電気系統の施設が壊滅状態となり、すぐに動かした非常用発電機の燃料もまもなく尽き、水槽への酸素供給やろ過循環や水温維持機能が失われてしまっていた。生命維持装置を外された生き物たちは、次々とその命を落とし始めていた。

そこに、館長からスタッフへの指示が下る。
「自宅待機。県外に避難してもいい。自己判断に任せる。」

その時、いわき市では原発の爆発による避難パニックが始まっていた。物資や食料不足が伝えられる状況の中、ここに残ることは"覚悟"を必要とすることでもあった。
「とにかく妊娠している妻を避難させなければ」山内さんは思う。
まだ泳いでいる魚たちを見ながら、何も出来ない悔しさが込み上げる。
「爆発事故さえなければ」
引き裂かれるような思いだった。愛情をかけ、精魂込めて育てて来た生き物たちと、別れを告げた。

その夜、彼は妻の直美さんを連れていわきを出発した。

妊娠中の長期移動は体への負担が大きい。早く遠くへと焦る気持ち。何度も苦しがる直美さん。体調を気遣いながら東京で一泊し、大阪にある山内さんの実家へと向かった。南下するにつれ、あまりの被害のギャップに驚く。店が開いていて物を売っている!普通にペットボトルの飲料が買える!蛇口をひねると、水が流れた。東京も大阪も、まるで別世界のように見えた。

大阪で、慣れない土地での直美さんの妊娠を支えながらの避難生活が始まった。病院を探し、実家での生活に必要な準備を整える。放射能の心配の無い場所に来た安心感。しかし、山内さんの脳裏にはずっと、水槽の中でまだ生きていた魚たちの姿が焼き付いていた。

「本当に自分の選択は正しかったのか?水を汲んできて替えることを続ければ少しは生きられたんじゃないか」
「あれだけ世話をした魚たちを置き去りにした」

自問自答と罪悪感に苦しめられる日々が続いた。自宅待機の解除の連絡もまだ無い。アクアマリンはこのまま無くなってしまうのかもしれない、そんな思いもかすめた。

そんな山内さんの元に、自己判断で水族館に残った数人の仲間からの報告が届く。いわきの海の生物は目の前の海へと放流し、トドやセイウチなどの海獣は千葉の水族館が預かってくれることになったという。水の循環の必要の無い水槽の生物たちには停電の影響は少なかった。一方で、地下の施設は泥と瓦礫で道を塞がれたまま手も足も出せず、巨大水槽もまた、クレーンが停電で動かないために、生き物たちの救出を諦めざるを得ない状況だった。

そしてある日"新潟の水族館が魚を預かってくれることになった"との連絡が入った。まだ自宅待機命令は解除されていない。しかし、山内さんは居ても立ってもいられなかった。直美さんを大阪の実家に預けたまま、1人いわきに戻ることを決めた。

アクアマリンに着くと、生き残った少しの魚たちが山内さんを出迎えた。
「震災から2週間以上たって、まだ生きていてくれた」
嬉しく、愛おしく、胸が詰まった。

1人またひとりと、同じような思いで自主的に戻って来たスタッフ達と、泥の掻き出しや瓦礫の撤去、水槽の清掃などを始めた。集まって笑い合いながらも、再開出来るかも分からない悶々とした気持ちを抱え、泥だらけになる毎日。さらに4月11日、再度いわき市を震度5強の地震が襲う。液状化した泥が地面から吹き出し、再び一瞬にして水族館は泥に覆われた。疲労と不安が重くのしかかる中、その果てのない復旧作業にひたすら体を動かし続けた。

その間も山内さんは、休みが取れると大阪へ向かい、直美さんとお腹の赤ちゃんの様子を見守った。初めての出産であり、事故の影響が産まれてくる子どもに出ないかも気掛かりだった。何度も何度もいわきー大阪を往復し、無事に産まれて来てほしい、五体満足で産まれて来てほしい、ただそれだけを願った。

* * * * * 

4月の終わり、唐突に、館長がスタッフを集めて宣言をした。
「7月15日にアクアマリンふくしまを再オープンする」
スタッフ一同、唖然とした。
「まだ瓦礫の撤去すら終わっていないのに?」
「この状態で7月にオープンなんて、出来るのか?」

しかし、そう言い合うスタッフの表情は明るかった。泥の掻き出しも、再建を思うと苦しさが半減した。一歩一歩前に進んでいける喜び、働ける喜びがじわりと体を巡る。1人、また1人と戻ってくるスタッフ、ボランティアも加わって作業はさらに進み、多くの水族館からも応援の言葉や手が差し伸べられた。館内は徐々にきれいにになり、準備が出来た水槽から少しずつ少しずつ、生物たちの姿が戻り始め、アクアマリンふくしまは再オープンへと、確実に歩みを進め始めたのだった。


* * * * * 


オープン準備が佳境を迎えた6月末、北海道まで魚を受け取りに行っていた時だった。山内さんの携帯に連絡が入った。

「産まれそうです」

駆けつけることも出来ない長く落ち着かない時間。8時間が経過し、やっと赤ちゃんの誕生の報告が届く。元気に産まれてきてくれた。不安が大きな喜びに変わった。

北海道から戻るとすぐに、山内さんは奄美大島へと向った。オープン前最後の魚の搬入である。その魚はキハダマグロ。キハダマグロのこの時期の移送は異例で、管理が難しいリスクのある搬入だった。オープン直前という失敗の許されない責任も背負いながら、トラックとフェリーを乗り継いで奄美大島からいわきへと旅立つ。到着したのはオープン3日前。水族館の目玉の1つでもあるキハダマグロが、悠々と巨大水槽に泳ぎ出した。アクアマリンの新しい出発準備が整った瞬間だった。そして同じ頃、大阪から直美さんと可愛らしい赤ちゃんがやってきて、山内家にも久しぶりの家族団らんが訪れたのだった。

迎えた7月15日。アクアマリンふくしまは復活を遂げた。
館内を歩き回るたくさんのお客さんの姿に、様々な人に支えられていること、何かを届けることが出来る喜びを、山内さんは改めて噛み締めていた。

これまでも、観光施設としてだけでなく,教育施設としての工夫を重ねて作り上げてきたアクアマリンは、海洋生物の調査研究施設としても広く注目されてきた水族館でもある。「世界一の水族館にしたい。魅力ある水族館でありたい」その想いは、この水族館設立当初から今も変わらず、スタッフ全員が持っている想いだ。

「現状は、県内からのお客さんがほとんどですね。少しでもお客さんにも安心してもらえるように、放射線の測定はしてます。飼育水も毎週測定をして水槽の中に入っている水に放射性物質が含まれていないことを確認しています。この水族館は手で直接水に触れるコーナーもありますので、不安を解消するためにも測定は続けています。せめて施設の中だけでも、安全ですよと言いたい。

ただ、子どもを抱えてこの土地にいることが正解かどうかは、まだわかりません。それでも、風評被害に対して逃げずに、負けずに ここは安全なんだよって証明するためにも、自分たちが踏みとどまらなきゃいけないんじゃないかって思いもありますし、震災直後のゴーストタウンみたいな状態になった時のことを思うと余計に、ここで離れるわけにはいかないって思いもあります」


大阪で育ち、東海大学の海洋学部で学び、研究生として大学に残っていた山内さんが、故郷から遠く離れたいわき市に来たのは新設されるこのアクアマリンでの仕事を受けての事だった。海洋生物に関わる仕事をするという夢が叶った場所であり、家族を持つことになったこの土地への愛着は深い。

「2〜3年踏ん張れば何とかなるんじゃないかって。そう思って、頑張って福島で暮らしています。でも、なかなか、気持ちは、整理しきれていないです」

(一部アクアマリンふくしま復興ブログより引用)