かつて「東電学園」という学校があった。1954年に設置された東電の技術社員養成所が、1964年より全寮制の東電学園高等部となったのがその経緯となる。一般の高校とは違って電気関係の科目が多く、教師も、原子力、火力、機械、電子、電力等の専門家が担い、専用の練習用実験設備、水力発電所まで整っていた。入学費や学費は免除、無料の全寮制。その後の仕事に直接繋がる勉強もできる。社員扱いとして、少額だが給料をもらえた。

 東電学園が男女共学になった年、吉川さんは入学した。決して裕福ではない家庭環境で育ち、進学を希望していた吉川さんにとって、それは申し分の無い進路だった。

 1学年230名程で、1〜2年生は電気の基礎の勉強。3年生からは特化した勉強に入る。座学と実験と毎週のレポートに追われる忙しいカリキュラムでバイトも禁止、門限も厳しかった。その生活は、寝食をともにする学生同士の仲間意識を育て、彼らの連帯力や精神面を培うことにも繋がっていた。

 卒業する頃には、電気の専門知識を身につけていた吉川さんは、原子力産業への入職を希望し、福島第一原発への配属が決まった。(※教育指導のための費用、施設、生徒の給料すべてが会社負担という仕組み自体への疑問視の声が高まり、2007年の春、この学校は幕を閉じている)

 初めての福島で彼を待っていたのは、凄まじく複雑な原子力発電の設備だった。彼の担当は水の浄化設備。運転には欠かせない施設であり、原子炉が止まった際に燃料棒を冷すための冷却水を作っている設備でもある。この設備だけでも100%覚えられるものではなく、ましてや原子炉建屋、タービン建屋... 発電に関わる設備が数え切れない程あった。"原子力発電所のことを全部覚えようと思ったらいくつ人生あっても足りない" そう感じた。

 彼は9年間、福島第一原発で働いたのち、福島第二原発への異動となった。

* * * *

2011年3月11日


揺れが収まるとすぐ、彼は運転出力の状況確認へと向かった。特に不安は無かった。あれくらいの地震でどうにかなるようなやわな耐震設計ではないと自負していた。出力表示灯に着いて確認すると、表示は0メガワット。原子炉が揺れで停止した事を示していた。
「スクラム(自動的に制御棒が上がり緊急停止する仕組み)で止まっている。大丈夫だ。」
目視での確認もし、避難集合場所となっている丘上のグラウンドへと向かった。

 "パトロールは必要だな。あの規模だと全所員で見ても6時間はかかる...。今日は午前様だな..."
坂を登り、皆が集まっている輪に合流し、まもなく、チラチラと雪が舞い始めた。
「寒いから戻るか」
どこからともなくそんな声が漏れ、所内循環のバスを使って女性所員を優先して戻すことが決まった。ぎゅうぎゅうに人を乗せた1台目のバスが丘を下ったその矢先だった。

ゴーーーー

 唸るような音が響いた。木が折れる音も聞こえる。「山崩れ?」木々に視界を遮られているグラウンドに呆然と立ちつくしていると、Uターンしてきたバスと、びしょびしょに濡れた人々が続々と登ってくるのが見えた。
「津波だ!」
とたん体が反応し、気が付くと彼は、丘の下を目指して走っていた。全力で走っていた。木々のカーテンを抜け、目の前に広がった風景に、彼は目を疑った。意外な風景が頭をよぎる。

まるで田圃だ・・・。

* * * *


水が捌けたあとに施設に戻ると、水はすべて地下に全部流れ落ち、地下二階で胸の高さくらいの水が溜っていた。水が流れた形跡やドアが破られた形跡が生々しく残り、床は泥水に浸されて見えなかった。

「冷却設備もダメだ。電源設備も非常用のディーゼル発電もすべて地下でダメ。とにかく電源を何とかしなければ。外部電源は東京からの送電線一本しか生きていない。それが駄目だったら手の打ちようがない・・・最悪メルトダウンまで想定しないと・・・」
本来、トラブル対応は幾重にも準備があり、何十もの手段があるはずだった。しかし、その大量の手段を津波はごっそりと持って行ってしまっていた。設備が水に弱いことは知っていたが、津波がこれほど致命的になるとは・・・。

 「日本はもう終わりだ」「どうにかなるだろう」「家族の安否がわからない」「生きていけない」居合わせた人々のあいだで声が飛び交う。津波で発電所近くの民家が流されていることも、皆、知っていた。目の前で自宅が流された人たちは、泣き崩れていた。海沿いに家がある人からも落胆の声が漏れる。各職場やグループ単位で、必須業務が無い人については帰宅や家族の安否を優先させるなどの判断がなされ、日が落ちる頃、その後も残っていた全職員への招集がかかった。免震重要棟に集まった職員の前で、苦渋の表情で所長が口を開いた。

「判断は個々に任せます。それでも、所長として言わなければならない状況となりました。残って、いただけませんでしょうか」

 それは、言うまでもなく"命の覚悟"の選択だった。家族の安否も全く分からない。気持ちは浮いたままだ。本当は逃げたい。寒いしお腹もすいている。しかし目の前の「電源喪失」という事実は、日本が終わるかどうかの瀬戸際を意味していた。

"こういう時こそ、踏ん張りどころだ"
吉川さんは、残る決意を固めた。

 緊急対応として、圧力が上昇してゆく炉心に、敷地内のタンクに溜めてあった水を注ぎ込む措置がとられた。平行して、外部電源として残っていた1回線を4基の原子炉に繋ぐために必要なモーターやケーブルなどがすぐに発注された。敷地内の野球場を職員の手で徹夜でヘリポートに改造し、ケーブルを積んだヘリコプターを社員の自家用車20台のヘッドライトで誘導することが決まった。協力企業に関しては、電気ライン復旧作業の担当者以外は帰宅の方針が出され、東電社員を中心に数百人が残った。
「協力企業への感謝を忘れるな」という福島発電所のポリシーは緊急時も徹底され、食料や水、毛布などは女性や協力企業に優先的に配布された。
「社員は段ボールの取り合いをしていましたよ」と吉川さんは笑う。
横たわる床はとても寒く、作業服の上に防寒服を羽織り何とか仮眠をとった。毛布が入っていた薄いビニール袋にくるまる社員もいた。緊急時の食料も津波被害に遭っていたが、初日はごはんとおかずが出たことを今でも覚えている。翌日からの配給は、カンパンや缶詰1コに姿を変えた。


* * * *


水が蒸発して水位が下がり、その水蒸気によって格納容器の圧力が次第に上昇していく。12日早朝には1、2、4号機で圧力抑制室の温度が100度を超えた。冷却が出来なければ、ベントによって水蒸気を逃がすしかなくなってしまう。それは避けたかった。ヘリによるケーブルの到着に続き、柏崎・刈羽原発から電源車や移動用変圧器が到着。外部電源と冷却水を確保する設備を、総延長9キロのケーブルで人力で繋ぎ合わせる作業が始まった。ベントの準備指示も下された。故障している箇所は直接運転員が直接出向き、体を張りながらベントラインを準備。作業が続く中、12日午前7時45分、福島第2原発から3キロ圏内の住民への避難指示が出された。

 もう1つ問題となっていたのは、吉川さんが担当していた冷却水を作る設備の故障だった。電源があっても設備が壊れていたらどうにもならない。冷却水を作るには、廃棄物建屋内での浄化循環と川の水利用の2つの設備があった。どちらかが機能すれば何とかなるはずだった。しかし、建屋内設備は全く使い物にならず、川の設備は、水を吸い上げる装置が津波で故障していた。別案として浮かび上がったのは、発電所設立時に使っていた、古い井戸水ポンプを動かすというものだった。

 井戸水ポンプは思った以上に小さく、どう動かすのかも分らないような明らかに旧式の設備だった。持ち運べる程の小さい非常用発電機を井戸近くに運び、制御盤をあけて配線の改造を試しながら繋いだ。動かすのは何十年ぶりだろうか。賭けのような気持ちで声をかけあい、電気を流した。
「動いた!」
一同がそう叫んだ途端、地面から水が吹き出した。無理も無い。耐震設計も昔のままだった配管は、地震で壊れていた。すぐに土木専門のチームが呼ばれ、ショベルカーで穴を堀り、配管の割れが確認された。
「塞ぐ部品があれば何とかなるかもしれない」
その場にいる全員が協力して部品を探した。人づてにも情報がまわったのか、見かけたことの無い人が部品を持って現れ、割れ目は無事に塞がれて水がちょろちょろと炉冷却水を作る設備へと流れ始めた。しかし、圧倒的に量が足りないことがすぐに判明した。

 手だてを失い、自衛隊にタンクローリーで三春ダムから水を持って来てもらうよう、国に要請を出すことになった。ちょうどその頃のことだった。福島第一原発の一号機がベント直後に建屋の一部が吹き飛んだことを受け、政府が自衛隊に派遣停止の命令を出した。それにより、タンクローリーの出動にストップがかかってしまったのだった。

「私たちは働いてるのに・・・?」

 社員で再度話し合い、三春に水をとりに行く事になった。とはいうものの、大型免許を持っている人間は居ない。「免許が無くてもいいなら行く」と十数人が手をあげた。地震で道路があちこちで寸断されている。慣れないタンクローリーで無事に帰って来れる保証も無い。しかしもうそれしか、余地は残されていなかった。水位が下がれば燃料棒が露出する。水蒸気によって格納容器の圧力もどんどん上昇している。もはや時間との戦いだった。

 13日朝に出発した有志が、タンクローリーで戻ってきたのは夜半。戻るのを待ち構え、到着後すぐ、水は冷却水を作る施設の貯水槽へと注ぎ込まれた。

「あの時、免許がなくてダメだなんて言っていたら福島第二も爆発していたかもしれません。燃料棒の露出まで何十秒とかだったという話しも聞いたことがあります。あと少し注水が遅れていたら、燃料が冷却水から露出していたかもしれない」

* * * *


同じ時系列で起きた、吉川さんのもう1つの話しも、残しておきたいと思う。

 "死"を覚悟した彼の脳裏に浮かんだのは、結婚してまだ間もなかった妻のことだった。夜になって彼は「必ず帰ってきますから嫁の顔だけ見に行かせてください」と上司に無理を言い、デコボコになった道を車で抜け出したのだった。携帯電話は通じない。社内で飛び交っていた避難先情報が僅かなアテだった。妻の実家の近くに見当を付けて車を飛ばした。はたして、彼女はそこにいたのだった。

 避難所は人で溢れ、親戚みんなが揃っていた。遠くには東電の青い作業服を着たままの人も見えた。双葉町で居酒屋をやっていた叔母に会い、吉川さんはとっさに聞いた。
「店にある飲み物と食べ物を、作業にあたっているみんなに持って行ってもいい?」
1も2もなく、その叔母は言った。
「いいよ。全部持って行っていいよ」
すぐ帰ろうとする吉川さんを、柱に縛り付けようとする親戚もいた。義理の父は「いつでも助けにいけるよう準備しておくからな」と言った。ずっと黙っていた妻は、吉川さんが車で出発しようとすると突然助手席に乗りこみ、家族が引き摺り出すように彼女を降ろした。彼は、振り切るようにアクセルを踏んだ。

 立ち寄った双葉町の町はがらんとして人の気配は無く、ヘリコプターが、その羽音で双葉の空を震わせていた。彼は、腕にはジュースや食べ物をいっぱいに抱えながら、頭上を飛びゆくヘリコプターを、見上げていた。彼はまだ、1号機の爆発が放射能が大量に出るような爆発だとは思っていなかった。自分が汚染されていることも、気づきようも無かった。「みんな喜ぶだろうなあ」と独り言を呟き、それらを車に運び込んだ。

 体への汚染が分ったのは、発電所に戻ってそのまま建屋に入り、作業を終えた時のことだ。いつものように計測をした吉川さんの線量の針が振り切れたのだった。社員が飛び退いたのを見て、彼は青ざめた。思い当たるのは双葉町の滞在しかなかった。服を脱いでも線量は下がらず、水で全身を洗っても落ちず、しまいには、除染クリームで体をごしごしとこすられ、吉川さんへの扱いは、徐々に汚物を扱うような対応へと変わっていった。そこにやってきた元上司が、見るに見かねて言った。
「きれいな服を着せてやれ。ゴム手袋で皮膚を出さないように気をつければ、人に迷惑はかからないだろう」言い終わると、吉川さんの方を向いた。
「人に触れても大丈夫だが、お前からは放射線が出ているから、それは理解しておけよ」

 海側の作業をしていた時だった。10km先に見える3号機がドォンという音とともに噴煙を上げた。事態はいっきに緊張感を増した。第一原発から何人ものケガ人が運ばれて来るようになった。爆風や瓦礫で怪我をした人、パニック状態の人もいた。この日から、第二原発が、寝る場所すら無かった第一原発の作業にあたる人達の休息所としても使用されるようになった。

 福島第一原発の作業にあたっていた人達は汚染がひどく、体育館の中に隔離された。そこに入ることは禁じられた。ご飯すら持って行くことはできない。福島第一原発の作業にあたっている人達の労働環境の厳しさが伝わってくる。

「何かしてあげたくても、何も出来ない。がんばってくれって心の中で思う事しか出来ない。それに、汚染している人を、人は人間扱いしなくなっていくんですよね。本当に、人間というものは情けないものですね」


しかし、第二原発も緊迫の連続だったことには変わりは無い。余震は毎日続き、津波警報が出れば夜であっても見回りが必要だった。

 「上司は『行け』って命令を口に出来なかった。だって、死んでしまうかもしれない。だから『俺が行く』って誰かが言うしかなくて。本当に命がけだった。だからせめて食い物って思うんですけど、これがなかなか届かない。お腹も空くし、『俺たちは一体何なんだろう?使い捨てのアリンコか!?』と何度も思いましたよ」


* * * *


3月中はずっと段ボールでの寝泊まりが続き、おにぎりが貰えるようになったのは5月頃になってからのことだ。過酷な環境下での仕事、家族内の問題の多発など、様々な理由で多くの社員が去った。去る人へ優しい言葉をかける人もいれば、罵声浴びせる人もいた。その後戻ってきても、そのことが軋みとなって人間関係に問題が生じたり、健康不安などのストレスが高じて、辞める社員もいた。家族離ればなれの生活や、親の仕事のことでの家族への差別や子どもへのいじめなどの問題が発生した影響で、東電社員の離婚も増えたという。

「私自身、会社に対する信頼が揺らいでしまいました。危機管理や放射能に対する考え方、被災者の方に対する考え方、対応などに違和感を感じます。例えば、収束作業用に会社が寮を作ってくれたのですが、部屋は狭く、トイレは仮設。シャワールームへは外を歩いて何分もかかる。プレハブだからプライベートもない。寮を作ってやったぞって言われても・・・あれで耐えられるのは緊急時だけだと思うんです。これから何十年も続くのに、あれを寮と呼ばれて使われてしまうことにも疑問があります。放射能の影響への不安もあり、命も張っているんです。

 また、収束や賠償の費用の捻出としてコストカットが必要なのは理解していますが、安全点検作業や修復部分でのコストカット命令にも納得が出来なかった。きちんと評価されて点検期間が延びるなら分りますが、少しでも安全性を上げようとしている時期に、安全確保のための作業をカットするような命令を引き受ける気持ちにはなれなかったんです。事故のことで批判されてもいいけれど、自分がやる仕事は、避難している人、被災した方々に対しても、自信を持って頑張れることをしたい」

2012年6月、吉川さんは14年間働いた東電を辞めた。

「でも、まだまだこれが終わりじゃないですから。外からであっても、その体質を少しでも変えるように動けば良いだけの話しです。変えようとしている人もいます。その人達がくじけないように外から支援してあげたい。国の管理と言っても、大学の教授だの原子力の専門家だの言っても、やはり現場を知っている人が一番分っている。現場の人が集まって正しく評価することが重要だと思います」


* * * *


彼は今、経験を生かし、収束作業現場と一般の人々の間の架け橋になろうとしている。人々に分りやすく丁寧に原子力のことを話す機会を重ね、一方で作業の方々に必要な支援物資を届ける活動を始めている。

 「元東京電力社員として、批判の対象になってしまった事は会社にいる人間・いた人間として責任があると感じています。それは受け入れなくちゃいけない。ただ、その問題とは別に、現地の人達の苦労、作業をしている人達の苦労を理解してもらえたら、そこから見えてくる事があると思う。起きてしまった事故は何十年も続くので、収束作業を続けることへの支援ということも発生してきます。長期に渡ることを考えると、働く人達の心の闇や疲れも心配です。ヤケを起こすことだってありえます。また、熟練の人達は被災した方がほとんどで、生活の苦しさから会社を辞められる方もいます。技術力があって現場をよく知っている人が続々と辞め、技術力が低く現場を知らない方が入っている。明らかに作業の質は下がっています。万が一何かあったときには福島だけでなく、日本、世界の問題になりかねない。そうならないためには、福島原発はもちろんのこと、全国の原発のモチベーションを上げていくことが必要です。その前提にあるのが、人を思う気持ちや優しさだと私は思う」

 事後直後、福島第一原発の収束作業、決死の作業に自ら応援に来た東電学園のOBも多かったという。彼らはお互いを「ファミリー」と呼ぶそうだ。彼の支援も家族への愛情のようにあたたかい。それは、家族的関係が支えとなることを実感してきた彼だからこそ、"気持ち"が安全を支える上でも重要であることを、はっきりと認識しているからなのかもしれない。

 「怒りではなく、応援の気持ちが生まれること。誰かを思いやる気持ち。そこに、救いの形があると信じたい」

 彼は、真っすぐな眼差しを、空に向けた。


※このインタビューは2013年2月のものです。その後、吉川彰浩さんは2013年11月にAppreciate FUKUSHIMA Workersを立ち上げ、「次世代に託せる"ふるさと"を描く」をコンセプトに、福島原発関連講演会、広野町を中心とした復興事業、児童支援事業を行っています。(2014.5)

■吉川彰浩さんが取り組んでいる活動のウェブサイトはこちら
Appreciate FUKUSHIMA Workers
http://a-f-w.org/index.html