ph_photo_t022_0.jpg日本一海に近い酒蔵「鈴木酒造店」は、浪江町請戸に江戸時代の天保年間から続く老舗酒造である。相馬藩の献上物を江戸まで運ぶ役割を担っていた鈴木家が、その褒美として酒造りを許されたのが由緒である。近くの契約農家の米を主とした、地元にこだわった酒造りをしていた。

「地酒というのは、その土地の味と合うところにも魅力があるんです。そこで穫れた新鮮な魚の塩焼きなんて話にならないくらい美味しいですよ。」

杜氏でもある鈴木大介さんは、地元が衰退しないように保っていこうと、ここ数年、周辺文化も巻き込んだ地酒のアピールを始めたところだった。地元の陶器「大堀焼き」で自分たちで杯を作り酒を飲む酒蔵見学ツアーを実施した後、この年の夏には、子どもと大人が一緒に地引き網をし、とれたて魚料理とお酒を浜で楽しむ企画が進行していた。

ここは、福島第一原発から約7kmの地点だった。


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3月11日は「甑倒し(こしきだおし)」と呼ばれる、今期の酒の仕込みを終える節目の日。仕事を早じまいし、夕刻には神事が始まる。蔵人が怪我もなく酒を造れたことに感謝し、いい酒であることを祈願し、皆で酒を飲む。

「今日はあんこうだぞー!」あんこうを捌いている母の姿を見て来た大介さんは、酒蔵に入りながら従業員に声をかけた。突如、ドオーッという音が地底から響いた。「地鳴りだ。これは尋常な地鳴りじゃない」大介さんは、従業員とともに酒蔵の外へと避難した。ますます大きくなる揺れの向こうに、母屋が見えた。江戸時代から建ち続けてきた木造家屋は右左に揺れ続け、大きな揺れとともに完全に崩れ落ちていった。大介さんは母と祖母がいる母屋へと走った。増築した部屋の中にいる2人を発見し、若い従業員と動けない祖母を抱え上げ、隣の家へと運んだ。

その帰り道、彼は堤防にあがった。
海がサアーッと沖の方まで引いて行くのが見えた。『これって潮が引いてるんだよな?大潮の干潮とかじゃないよな?』判断がつかないまま海を眺めていると、知り合いの漁師が血相を変えてやってきた。
「潮が引いてる!逃げないと!船の連中も船底引きながら沖に出てった!」
それを聞いて初めて、事の重大さに気がついた。『逃げなければならない。』この時、津波警報はまだ鳴っていなかった。

大介さんは急いで蔵に戻った。車2台は母屋の崩壊の下敷きで潰れている。残りは、営業車1台と、弟の車1台。営業車で祖母たちを避難させ、弟の車に従業員1人と近所の人と4人で乗り込んだ。津波警報が鳴り始めた。消防団員でもある大介さんは、消防車とすれ違ったら停めるよう弟に頼んだ。消防団の車が見えると彼は車を降り、消防団員たちと合流して避難誘導に回った。

「何かあったらすぐ逃げられるように、山の方に向けて車を止めろ」
年長の大介さんは若い消防団員に指示した。

唐突に、風が、海側に向かって吹いた。

体を過ぎる風につられ、彼はプッと後ろを振り返った。

ph_photo_t022_01.jpg10メートルはあっただろうか。波が壁のように立ち上がり、今まさに崩れようとしていた。その崩れゆく波に飲まれ、海岸に植えられた高さ15mはある松が次々になぎ倒されていく。『松がもやしのようだ』しばらく、何が起きているのか理解が出来なかった。

家が1つ、また1つ、潰れていく。潰れるたびに家から、ボオンッ、ボオンッと埃が上がった。段々と、街全体がもこもことした煙に覆われていった。

ふと南側を見ると、立ち上がった波が南側の山にぶつかって、凄まじい勢いでこちらに向かっているのが目に入った。『俺らも逃げないと、間に合わない!』大介さんは団員に車を乗り捨てて逃げるよう伝えた。

道に再び目を移すと、渋滞している車の中で、人々が背後から来る津波の存在に全く気がついていない。大介さんはとっさに走り出した。止まっている車1台1台の窓をドンドンと叩き「波が来てる」と後ろを指差すジェスチャーをしながら走る。容赦なく迫り来る波。ギリギリまで粘り、彼はトラックの荷台に飛び乗り、数台の車を飛び移りながら、やっとの思いで高台にあがったのだった。

波が目の前を過ぎていった。
その濁流の中に、つい先刻まで乗っていた消防車が浮かんでいた。

「恐怖感も越えて、逃げなきゃ、走らなきゃ、と必死でした。どうしようも出来なかった人もいたというのも事実です。「どうせ波なんて来ないからいい」と言う人もいました。その人は後で不明者リストに載っているのを見ました。私の子どもは何とか無事でした。10トントラックに子ども達がノアの箱船みたいにぎゅうぎゅうに乗っていて、みんな泣いてましたね。」


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夜明けを待って消防団と警察で捜索に行くという話がまとまった。夜中に、原発から半径3キロ圏内の避難命令が発令された。大介さんは知り合いのバイク屋にバイクを借り、双葉に住む叔母の様子見と、地域の見回りに使わせてもらう事にした。

バイクで請戸付近を通りかかると、翌日の捜索がしやすいように、重機が瓦礫を除けて道路を作る作業が終わったところだった。バイクを降りて見ていると、友人が通りかかった。家が潰れてて、その下で声がすると言う。救援を頼みに消防署に戻ることにした。

「声がする」といった話は他にもいくつもあった。『まだ生きている人がいる。夜が明けたら捜索だな』そう思いながら役所に戻った。

その時、思いもよらない言葉が告げられた。
「捜索はやらない」

彼がバイクで走っている間に、半径10キロ圏内の避難が発表がされていたのだった。
「じゃあ誰が捜索するんだ」と彼が聞くと、
「自衛隊やります」という返事が返って来た。


「それを信じて浪江を後にしたんです。本当に辛かった。生きていた人はだいぶいたんですよ。翌日の半日だけでも捜索が出来れば、助かっていたかもしれない。結局、捜索が再開されたのが4月14日。それまでは何の救助もなかったんです。

契約農家のご一家も行方不明でした。ゴールデンウィークに、捜索で見つかったお父さんとお孫さん2人、お婿さんの火葬をやったんです。お世話になった人なので、お別れをしようと父と火葬場に向かいました。棺桶の蓋を開けた時、腐敗臭がパアッと周りに漂って。そういう状態ですから、袋に入って顔などは見ることは出来ないんです。怒りというか、やるせない。亡くなった人達の『生きた証』のためにも、酒を造って、語り継げるような場を作りたい」


浪江町では、震災で177名の方が犠牲となった。今も7名が行方不明のままである。(2011年12月11日確認)町民の約10人に1人が犠牲になった。この地区は「津波が上がらない」と昔から言われてきた。安心していて逃げなかった人、内陸部で状況が分からないままに流されてしまった人もいる。また、地震と津波では生き残ったものの動けない状況に陥り、原発の事故による救助活動の中止により救助出来なかった方々も、この人数には含まれている。


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12日の昼、大介さんは、浪江町の住民約700人とともに、避難指示区域とされた半径10キロ圏内のすぐ外にある苅野小学校にいた。
空は美しく晴れ渡り、何事もなければ、清々しい程に気持ちのいい風だった。その風は原発の方角から吹いていた。

原発の協力企業で働いていた友人がやって来て言った。
「原発がやばいらしい。ここからも逃げた方がいい」
それを聞き、消防団にまた動くよう指示をした。団員が乗って来た車5台のうち2台を小学校にいる他の避難者に渡し、3台に乗り合わせて内陸に向かった。

津島地区の高台の避難所に着いてしばらくすると
「原発から水蒸気があがったのが見えた」
とある人が言う。その直後、消防車が眼下の道を通るのが見えた。緊急車両からスピーカーで何か言っている。しかし、何を言っているのか聞こえない。伝えにこちらに来るのかと思いきや通り過ぎて福島市方面へ走って行ってしまった。道路から上がって来た人が言った。「ここ危ないからすぐ逃げるように緊急車両が言っていた」
すぐさま大介さんはそれを口頭で伝え始めた。しかし、それぞれの家族を捜すことで必死だった避難所の人々へはその言葉は届かなかった。

人々がいっせいに動きだしたのはテレビでの報道が始まってからだ。半径20キロ圏内からの避難指示が流れ、避難所からは人が消え、静まり返った。

多くの人を送り出したとたん、どっと疲れを感じた。気がつけば丸二日間寝ていなかった。しかし、休む間もなく今度は、避難が遅れていた浪江町のお年寄りや養護福祉施設の人達がやってきた。再び避難所はごったがえし、非常用布団を配って歩くうちに時間が過ぎていった。

大介さんは、避難所近くの公衆電話から東京にいる妹と連絡をとり「ショートメールで家族に連絡してくれ」と頼んだ。避難始めから家族はバラバラに動き、携帯は通じなかった。家族と親戚が米沢の避難所にいること、祖母を入院させようと南相馬に向かった母が、祖母と同じ津島地区にいることが、妹を通じて分かった。

翌日山を越えて川俣町に移動、その後、福島市で母と祖母と落ち合って米沢へと向かい、家族と再会したのだった。

家、酒蔵、販路、今まで培って来た記録、周辺文化、地元、すべての喪失。着の身着のままで、運転免許証すら無かった。

酒を造り、酒を通して出来た繋がりの中で確認していた自分の存在価値をどこに求めればいいのか。お酒を造ることができず、やることがない、それはまるで"死"のようだと感じた。


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「直後は、絶対に帰れないと思っていました。

原発近くの地域なので、近くに詳しい人間がいるわけです。プルサーマルやってる3号機4号機が爆発したら500km駄目だって聞いていたので、あーこりゃだめだなと。情報が伏せられていることが当初から分かりましたし、報道関係の知人や友人から「上司の命令で福島入れない」「中央紙から全く取材が来ない、地元に対する報道が一切無い」といったことを聞き、これが国のやり方なのか?と国に対する不信が大きくなりました。

避難指示がきちんと為されなかったことに対し、浪江町の職員は「国とのホットラインが切れて連絡がつかなかった」と言っていましたが、もともと浪江町は原発立地町の隣町なので、双葉や大熊のような手厚い保護下にはなく、町も見通しが甘かったと言わざるを得ません。双葉大熊は国からの指示があって動いていたんですけど、浪江町にはそれがなかった。浪江町は自分の判断で逃げるしか無かった。12日の時点で、国、県に対しての信頼性が無くなりましたね。


これまでも、東海村のJCOの事故の影響で農産物が風評被害を受けていることを知り、1次産業加工業者としてリスクを持っていこと、そのリスクに対しての公平さを欠いた県のやり方を知事に言及したこともあります。電源立地交付金って小さな発電所があれば水力でも風力でも、出力ワット数に関係なく貰えるんですよ。浜通りは19%しか持っていないんです。会津がほとんどです。ちなみに知事は会津出身です。何で出力ワット数に応じて電源立地交付金を交付しないんだって話ですよね。そして今回、避難時に大渋滞が起き、避難路が確保されていないことも分かりました。

10年程前に女川の発電所見学で科技省のお役人に作文を頼まれた時、ウラン燃料製造に関わるCO2発生量が加算されていない、廃棄物をどうするかもクリアになってないってことを書いたら「書き直して下さい」って電話があって、「書き直すつもりはないし、私の原子力に対する意見はこれです」と言ったら「鈴木さんは載せる事できません」と。福島第二原発の見学時にも「緊急事態時に密閉された空間で正確な判断が出来るのか?中央制御室の何万通りの操作方法を覚えてちゃんと操作出来るのか?」と聞くと「出来る」って言う。簡単なバルブ操作は協力企業がやるので、東電が全部場所分かってる筈もないんですよね。この春には1号機を見学させてもらう予定でした。1号機は一番最初の原発でGMの機械で、一番優秀な技術者を配置しているという施設なんです。その1号機を見せてくれと頼んだので、こっちが何か意図を持ってるんじゃないかと警戒されていました。

「事故だけは起こさないようにしてもらえれば」って只それだけだったんですけど。

結局、今原発で頑張ってる連中っていうのは、地元の連中ですよ。「何とかしたい」って気持ち1つで。知ってる連中みんな頑張っていて「俺がやるしかない」って目の色変わってますよ。7月の終わりに会った友人からは、何か覚悟を感じました。被爆も規定値が過ぎてしまうと仕事を失います。原子力関係の仕事に就く事も出来ません。重機のオペレーティングやっている友達はどんな気持ちでやっているのか。想像を越えていますよ。

被害者なのにね。その家族も本当に大変ですよね。何でここまで、1地域の人間に重みを課すのかと。本当に原子力行政というのは歪みばかりだと。

『福島は植民地だ。特に双相地区は福島の植民地だ』と以前から言われていて、それが色濃く今も残ってるんです。国の原子力行政、首都圏の電気需要を賄うため人柱を立てられる。沖縄の基地問題と似ています。

避難区域で何か残っている人も辛い。その側を離れられないのに帰れない。最初は喪失感でいっぱいでしたけど、私はある程度整理できました。執着しようにもするモノが無いんです。家が残っても、半壊で補修が必要だったり、家の中がホットスポットになっていたり、泥棒が入ったり、手が出せないまま空気が変わってしまった。何か残った人たちも、一時帰宅で見てくるうちに精神的に参ってしまう。

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そういう地元の人達がいるからこそ、これまで支えてくれた人のためにも戻りたいって思います。今まで培ってきた自分たちの文化も、酒造りさえ出来れば、作り直していくことも出来るんじゃないかって」


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ph_photo_t022.jpg4月、試験施設に残されていた山廃酒母のサンプルから、酒造りのためのオリジナル酵母が取り出せる事が判明した。南会津の国権酒造株式会社の専務さんからの酒蔵の貸し出しの申し出も受け、大介さんの体の中からイメージが湧きあがる。「もう一度酒造りをしよう」

そのころ、同業の仲間から被災した彼を励まそうと企画された花見の誘いが来た。異例な寒さで桜の開花は遅れ、寒さに震えながら身を寄せ合って冷たいおでんをつつき、持ち寄った酒を飲んだ。震災以来初めて、酒を口にした。

皆、地震で機械が壊れるなど、何かしらの被害を受けていた。地酒の業界は不思議と仲がよく、お互いに情報交換をしながら酒の味を高めあってきた仲間でもある。不思議と一体感が生まれ、力が漲るのを感じた。

『集まって、酒を飲んで、皆が1つになる。それは酒が持つ力』

"飲酒全其神"(飲酒其の神全うす)

家に額縁に入って飾ってあった曾祖父が好きな言葉が蘇った。何百年もの間、様々な苦境を越えてきた酒蔵の家の血が、大介さんの中で語りかける。

形の無いところから酵母を育て、作りだされる酒。その酒は、人との絆の確認の場や人と人の関係という形がないものを作り出す。

『なんか無限だな』大介さんは思う。

『酒造りで思う世界を作り上げていくことが出来れば、なんぼ借金しても楽しく生きていける。悲しい事もすべてを力にしていこう。何も無いなら、何も無いところから、前に進もう。やめるわけにはいかない』


大介さんは、南会津の蔵人と力を合わせながら祭りとお盆に間に合うように酒を仕込んだ。仕込み1本で2000本。7月、鈴木酒造店に継がれてきた「磐城壽」が蘇った。

発売日には、店に人が並び、売り切れが続出した。二本松の店にお酒を持って行くと、お客さんが数人待っていた。「磐城壽」が出ると聞き、孫の出産祝いにしたいと来てくれた人、浪江町から大熊町に嫁いでいった知人、人々は酒を受け取ると涙を流した。大介さんの目からも涙が溢れていた。

酒販店の人が半泣きの笑顔を大介さんに向けた。「双葉郡の人達がみんなこの酒を買いに来て、みんな地元の話をしていくんだ。それが10分どころの話でねえんだよ。縁のあるものが嬉しいんだねえ」

ph_photo_t022_2.jpg「今回南会津で造った酒も、うちの「磐城寿」だと言ってもらえた。自分が思った酒造りをすることが出来ことが大事なんだ。バラバラになっていても、その土地の縁というのはなかなか切れるもんじゃない。浪江では恐らく20年位は商売は出来ないし、戻れても暫くはお酒も浪江では造れないかもしれない。それでも、浪江に戻れるようになったら一番始めに入る事業者になって、営業所を造ってもう一度、地元にお返しがしたい。」強く思った。

その後彼は、後継者問題で継続をあきらめていた山形の酒造さんの酒蔵を買い受けることを決めた。酒蔵の設備を変えて稼働し、浪江町に戻るために、鈴木酒造店の酒造りを絶やさずに続けている。

「待っててくれる人がいる。それですね。それしかないかなあ。それが一番の財産で、自分の拠り所です。自分も人の為に出来ることがあったら出来る限りやりながら、人と人の絆を深める力を持つ酒を、つくり続けたい」

酒造りに励まされ、酒造りの中に希望を見つけた。

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株式会社 鈴木酒造店 http://www.iw-kotobuki.co.jp/

(写真提供 : 株式会社 鈴木酒造店)